(ウールワース店員、ボランティア警官)
ロータリークラブがスポンサーで、他の国へ4週間行けることは、誰にとっても魅力的です。また、それが日本を訪問する機会だとしたら特別です。
一人のロータリアンが、私のところにやってきて、このプログラムのことを告げ、ニューキャッスル中央ロータリークラブ訪問と応募のスポンサーとなる人たちとの会の機会を与えてくれました。応募が済むと面接がありました。この面接は今まで経験した中で最もきついものでした。私のクラブの代表を含め、7人の面接者、そして私自身が小さい部屋で会いました。面接はかなり、リラックスしたもので、質問はすべて、チームつくりに関することでした。面接後2日して、成功がもたらされ、GSE団員になってほしいと言われました。あたかも、そう要請することが必要なように!
チームの第1回目のミーティングは大変インフォーマルで、単純な自己紹介でした。みんな、うまくやって行けそうな気がして、お互い知り合いになれたことを、喜びあいました。しかし、これはほんの初めで、日本で過ごす1ヶ月を勘定にいれずとも、それから7ヶ月もの準備期間が待ち受けていたのでした。
プレゼンテーションの準備作業ははかどり、どんなテーマを選ぶか、役割分担をどうするかについて早く合意しました。私たちの狙いはシンプルでした。我々自身のこと、この地域の歴史、発展、文化のことを、日本の人たちに話ししようと思いました。これらのことは大阪訪問の際に、私たちが目にするものと同じ項目です。次の7ヶ月間、スピーチ原稿を書いたり、調査したり、スライドやパンフレット用、名刺用の写真を撮られたり、地域の写真を撮ったり、コスチュームをつくったり、プレゼンテーションの振り付けを考えました。それに加え、日本で過ごす1ヶ月について自分自身の準備を始めねばなりませんでした。
日本語を習うことを考えねばなりませんでした。考えるだけなら、やさしいことですが、そうではありません。実際にタインマウスカレッジに行って、日本語を習うのです。加えて、マリリン・ポッツ翻訳エージェンシーを通じて、日本語、日本文化の追加のレッスンがありました。知識ゼロの状態からあの複雑な言葉を、時間の許す限り勉強しました。エマは授業中のスター通訳者でした。そこで、エマが傍に居る限り大丈夫と、みんな感じたと私は思います。日本に着くと、とたんに明らかになったのは、そこで出会った日本人の英語会話能力が素晴らしいことでした。
このような準備で、出発まで日が早く過ぎました。突如4月がやってきて、「あと、4週間しかない」と思いました。出発前の4週間は大変慌ただしいものでした。プレゼンテーションが3回、例会への出席、ウールワースとノーザンブリア警察で自分が不在の間の職務引き継ぎがありました。5月4日がやってきて、ニューキャッスル空港に連れて行かれ、他のチームメンバーと会い、オランダへ飛び立ちました。
空港で家族にサヨナラを言い、出発ラウンジを通りました。そこで私たちは飛行中の読み物を買いました。それには飛行時間とほぼ同じ時間がかかり、あやふく飛行機に乗り損ねるところでした。多くの人が、私たちに待たされたことへの文句と嫌悪感の表情を見せていました。しかし、まもなく飛行機は飛び立ち、風車と色とりどりの畑のオランダへ向かいました。約1時間半後に、広くて印象的なスキポール空港に着きました。乗り継ぎには2時間の待ちがあり、ボーイング747-400に搭乗して日本の大阪近郊、関西国際空港に向かいました。飛行時間は11時間半でした。
飛行中、私はほとんど寝ていましたが、日本時間午前6時にゴビ砂漠で日の出を迎えた時に目覚めました。ライジングサンの国へ向かって飛行中に日の出を見るのは、適切でした。現地時間、2000年5月5日、金曜日の朝、8時半過ぎに関西地方に向けて降下しました。眼下にいろんな産業のサンプルが見え、サイズや目的の違うさまざまな船が海に散らばっていました。空港に着いて、到着デスクに向かいました。ユニフォームに着替えるためにトイレに入りましたが、税関の事務官は当惑して、私たちにトイレから出るのを急がせ始め、入国デスクへ促しました。税関その他を通過すると、歓迎団に会いました。訪問中の4週間でなじみになる多くの顔に会いました。彼らは私たちの日本到着を歓迎し、大阪のビジネス街の中心にある豪華なホテル、ホテル・ニューオータニへ連れていってくれました。
最初の土曜日、英国とカナダへ行ったGSEチームの前メンバーが大阪の中心部と有名な電気店街へ連れて行ってくれました。その地域では、何百もの店が電器製品を売っていて、「でんでん」と呼ばれています。店を見て回りましたが、私には大変面白く、日本で小売業を見た最初の経験となりました。印象深かったのは、この地域内の顧客サービスでした。英国でも多くの小売業者がこれに学ぶことができるでしょう。「でんでん」訪問の後に、道頓堀と呼ばれる別の地域に行き、初めて日本で箸を使い、楽しみました。初めて食べる「本物の」日本食でした。食事はいろいろの料理のコースでした。キャプテン加藤(カナダ行きの日本チーム団長)は、箸を正しく使う方法を教えてくれました。(結局、彼はあきらめました!)彼は箸を左手に持ってコーンを拾い上げる競争をしようと言いました。不運なことに、それができなかったのはキャプテン加藤ただ一人でした。
日曜日はリラックスした日で、次の4週間のホスト家庭と会う歓迎晩餐会に参加する前に、松岡茂雄とその委員会の人々に会いました。最初のプレゼンテーションは、この歓迎会で、日本語、英語半々でしました。通訳は芳賀さんで、私たちの英語を見事に通訳しました(そう聞いています!)食事、スピーチ、多くの紹介の完了後、待っている車に乗り、最初のホスト家庭の自宅へ向かいました。私の最初のホスト、須田さんは、私の日本名「あんちゃん」を付けたことに、いつも責任がありあます。なぜ私にこんな名が付けられたかと言えば、須田さんには三匹のペットがいて、「ろく」(六)という犬、「なな」(七)という猫、「はち」(八)という別の猫がいて、どの名前にも「ちゃん」という、子供を指す単語がついています。私を「きゅうちゃん」(九)と言う代わりに、彼は「あんちゃん」と私を呼びました。チームの中で一番若いメンバー、つまり子供だからです。「あんちゃん」と言う言葉はマフィアのギャングの意味もあるらしいのですが!こんな風にして、この旅行の間ずっと、「あんちゃん」という名が私に付いてまわり、多くの人の笑いを誘ったのでした。
ホームステイは、すべて素晴らしく、すべてのホスト家庭のホスピタリティと友情に感謝致します。私たちは大変ナイスな家々に滞在しました。驚いたことに、家の中は洋式でした。(少なくとも一部屋は日本式でしたが。)最初の2週間、私は日本式の部屋で布団で就寝しました。これはとても快適で、日本式の生活、日本式の食べ物に適応したことを、自分でも驚いています。(生の烏賊と蛸は駄目だったことは白状しますが)第2週のことですが、布団での睡眠が気持ちよく、家を強く揺すった2回の地震にも気が付かず、寝ていたくらいです。
この4週間で、多くの興味深い場所を訪れました。それら全てを挙げて描写するなら、多くのページが必要です。そこで、以下に述べるのはその一部です。
大川の水上バスは、都市の様子を見る優れた方法です。それも普通とは違った角度から。大阪ピアーから天満橋ピアー、淀屋橋ピアーへ、そしてえまた大阪ピアーへ戻ります。ボート自体も変わっていて、低すぎる橋の下をくぐるときは、ボートの屋根を下げて通過するのです。
大阪城へ行って、どのようにしてこの城が修復されたかを見、天守閣から素晴らしい眺めを楽しみました。大阪城の構内で日本舞踊をみることができたのは幸運でした。
大阪市役所では大阪市長のレセプションがありました。市長は私たちの訪問について質問し、私たちの質問も受けてくれました。そのあと、市役所内を案内され、市議会の議場を見学しました。
天満宮。神道の神社です。伝統的な神社の様式とモダンなデザインスタイルのミックスが見られます。神社それ自体は大変伝統的で、レセプションの場はモダンですが、お互いマイナスにはなっていません。この神社では結婚式場と、一つの「サービス」(式)を見ました。そのあと、焼け付く太陽の下で、お茶に招かれ神社自身の音楽家による演奏を聞きました。日本滞在中、多くの寺院や神社を訪問しました。これらの美しい建物はすべて、その職人の技術と創造性が印象深く、特に三十三間堂では千の仏像が内部に並んで、お堂を守っていました。大阪市大付属病院、ワールドトレードセンター、海遊館、大観覧車、百貨店、京都の葵まつり、サンヨー(中央研究所)、パナソニック(松下電器技術資料館)、森永製菓、国立民族学博物館も訪問しました。
自分の職業に関することの研究も、日本訪問の目的の一つであるのは明白です。私には二つの分野があります。ウールワースの仕事関係での日本探検は、多くのデパートでした。私が訪問した大阪のデパートは殆どすべてが、例えばジョン・ルイスパートナーシップと同水準です。阪神百貨店は地域社会(コミュニティ)がいかにデパートと関わっているかの好例です。阪神には優れたPR戦略があり、地域社会と電鉄会社でつながっています。電車はデパートの地下に直接乗り入れています。野球チーム、阪神タイガースもあります。このチーム関係のグッズはこの店だけで売っていて、ほかにチームのホームグラウンドとしてのスタジアムもまた所有しています。地域社会に関わっているため、このデパートは地域社会から尊敬され、店は有名になり、人たちは自分の贔屓のチームをサポートするために買い物をします。
ノーザンブリア警察特別巡査部の特別隊地域マネージャーとしての関係では、関西地域の警察システム見学を大阪府警の交通管制センター、110番(999)のコントロール室、警察署訪問で行いました。職業研修は非常に良くプランされていて、私にとって大変有益に感じました。自分のしている仕事を日本でのやりかたと関連づける機会を、ただ楽しみました。日本の警察にはボランティアによる警察サービスがありません。私たちの「特別隊」が何をし、どのように組織されているのかなどに、彼らは非常に興味を持ちました。おそらく、同じ様なサービスの提供を日本でも検討し始めるかも知れません!
私は、これが我が人生最大の経験の一つであると信じます。私は国際ロータリーが与えてくれた機会のことを決して忘れないでしょう。日本で過ごした時のことを忘れない、そしてチームのためにこの旅行を大変苦労して実現して下さった、英国と日本のみなさんに感謝したいと思います。
最後のノート。5月31日、水曜日に私たちは弾丸列車(新幹線)に乗って、広島へ旅行しました。広島は、原子爆弾が初めて落とされた場所として有名になった都市です。爆弾は1945年8月6日、8時15分に上空で爆発し、その下の都市に広範囲な、また長い年月続く荒廃を引き起こしました。殆ど全てのものが灰と瓦礫に帰し、多くの人が死に、多くの人がその後何年も激しい後遺症に苦しみました。この都市とその記念館を訪問することは、大変謙虚な気にさせられる経験です。ここでは誰をも非難していません。ただ、事実をあるがままに述べているだけです。日本のロータリアンの一人から、こんな話を聞きました。戦争の終わる2、3ヶ月前、ある日、彼は学校で体育の授業を受けていました。彼らは年入った将校が視ているのに気付きました。授業が終わると、その兵士は教室に入ってきて、子供たちに話をしました。彼は言いました「教育が非常に大事なことを覚えておきなさい。兵隊さんのおかげで、戦争はまもなく終わる。」(日本人は、戦争に勝っていると思っていました)その兵士は言いました。「学校教育が終了しても、勉強を続けなさい。世界平和のために勉強し続けなければならない。」私はこの話と、私たちがいま日本で勉強していて、「橋を架ける」をチームのメッセージとしていることに心打たれました。私は、チームとして、また国際ロータリーを代表して私たちが本当に橋を架けたと信じます。その橋は決して破壊されません。なぜなら、多くの新しい友や連絡先が日本にいるから。また私たちがその橋の破壊を決して許すべきでないからです。永遠の平和のために、私たちは共に働きましょう。
この機会に以下の方々にお礼を申し上げたいと思います。リストは、終わりなく続きますので、特に次の方々の名前を挙げさせて頂きます。
ハワード、ヘレン、エマそれからもう一人のヘレン。日本における4週間(それにそれ以前も、以後も!)よく私に我慢してくれました。
須田夫妻(第1週のホスト)
小野山夫妻(第2週のホスト)
米田夫妻(第3週のホスト)
梶夫妻(第4週のホスト)
私のホストは全員、ご自分達の個人的なスケジュールの中から時間を割いて、彼らの家庭での私の夜の活動を提供して下さいました。あんなにも歓迎し、私を幸せにして下さったことには感謝しきれません。彼らは私の新しい家族となりました。いつまでも友人であり続けたいと希望しています。私はこのホスピタリティを決して忘れないでしょう。
素晴らしい活動プログラムをつくっていただいた日本のGSE委員会、および私たちの日程の組織化に関わったすべての方々に。提供していただいた仕事は、訪問、活動、ミーティングの優れた組み合わせとなりました。特に2660地区のコーディネーター松岡茂雄さんに感謝します。
スポンサークラブのニューキャッスルロータリークラブ(特にビル・ダンロップ)に。
英国北東第1030地区のガバナー、ジョン・ビラニー、イアン・ウォーカー、マリリン・ポッツに。
日本行きを許してくれたウールワース社(特にマイク・ヒーリー、マイク・ローズ、トレバー・ダール、ベバリー・バートサイド)に。
ラルフ・トムソンに、日本語で助けて頂いたことに。
日本訪問中に、長い間友人であり続ける多くの人に会いました。いつか、日本に帰ってきてもう一度これらの人たちにお会いしたいと希望しています。このことを心にふまえ、私の訪問の体験に対し、この旅行に関係して下さった全ての人に、そのサポートと友情に対して感謝します。一生忘れられない体験でした! 有り難うございます。
アンドルー・バークス
1030地区GSEチームメンバー