(八尾自由教会英会話クラスコーディネーター、福家医院看護婦、八尾東RC推薦)
国際ロータリーを通じ、アメリカにおいて5週間の充実した学びと、心の通いあうホームステイの機会をもたせていただきました。目まぐるしい毎日の中で訪問した場所や人々を思い返す時に、何と凝縮した様々な経験と、貴重な出会いがあったことかと感慨深く思います。ノースカロライナに、第二の故郷ができたようです。企業や、学校、福祉団体など、様々な場所で中心となって働く方々から直接お話を聞くことができ、今後の働きにとても役立つ、多くのことを学ぶことができました。その中から、私が特に興味を持った、医療と、福祉の分野について、また全体を通じて学んだコミユニケーションの問題について報告したいと思います。この素晴らしい研修と国際交流を企画して下さった、国際ロータリー第266地区の皆様と、私たちの研修のために現地で惜しみない奉仕をして下さった第769地区の皆様に、心からの感謝と賛辞をお贈りいたします。(1991年4月24日)
今回4つの総合病院、開業医の診療所を2ケ所、老人ホームを4ケ所、訪問したが、一言で言うとアメリカのシステムは合理的である。
第一に入院日数が圧倒的に少ない。通常、盲腸は2日間、一般的な心臓病手術なら2週間、出産などはたったの1日か2日である。整った看護体制と、病室がほとんど個室のせいもあり、入院費や医療費が高くつくせいもあるが、リハビリヘの意識が高くなり、院内感染も防げる点で誠に効果的である。
第2に地域の開業医との連携が出来ている。退院後のフォローのために、地域の開業医との連携が必要となるし、開業医にしても自分の患者を大きな病院に送ったとき、その病院の担当医師とともに患者の治療に携わることができるので、退院後のフォロ一もしやすい。連絡はファクスやマイクロ通信などの通信システムを用いている。
第3に、情報のシステムが機能的である。コンピューターはどの病棟にも、どの場所にも設置されており、例えば、病棟で患者の過去の検査データーが必要なときは、看護婦は患者の個人ナンバーとパスワードを用いて検査室の総合コンピューターからデ
ーターを引き出すことができるようになっている。アメリカのよいところは新しいものをすぐに取り入れて、仕事の合理化をすぐに進めることができることであろう。コンピューターがあれば、看護婦や医者が、かさばる検査結果のスリッブをカルテに整理したり貼ったりする必要がないし、破れる心配もしなくてすむ。また、必要な検査データーだけを取り上げて検出することも出来る。日本は、アメリカに劣らない優れたハイ・テクノロジーをもっていながら、病院などの医療現場であまり利用されていないのはまことに残念なことである。
第4に、医療チームの質が高い。看護婦の病棟における位置が、まず違う。
一般病棟には看護婦以外にも看護助手、医療事務スタッフがおり、婦長や、看護部長にはそれぞれ秘書が付いている。看護婦は、患者に必要なケアが行なわれるように、病棟全体の動きを管理しており、掃除や伝票整理などの雑務に手を取られることはない。その分、患者の看護に集中できる。タ夜勤にも必ず看護助手がつき、病棟の雑務を引き受けるので、看護婦は患者のベッドサイドでもっと時間をとれるわけである。看護婦のほかにも、レントゲン技師、検査技師、理学療法士などの各医療技術者たちも病院内で活躍している。それぞれの専門分野の人々が責任を持って医療を進めてゆくため、医師も患者に余分な負担をかけずに効果的な治療を進めてゆくことができるわけである。ムダを出来るだけ省いて、必要なケアは十分に、というのが基本になっている。
そして新しい勤きに敏感である。
コンピューターなどの設備投資や医療チームの編成だけでなく、患者との関わりにおいても、アメリカは絶えず新しい方策を取り入れている。
今回の訪間場所の一つであったパプテスト病院の新生児集中治療室では、現在24時間の両親の面会が許されている。この病院は地域の小児医療センターになっており、重症のケースがここにやって来る。このシステムの導入に関してはもちろん様々な反対があった。しかし、10年ほど前より看護婦たちが中心となって、実験調査を行ない、マスクやガウンをつけなくても、また、子供におもちゃを持ち込んでも、感染の面においては変わりがないことが証明できたので、さっそく集中治療室を24時間面会OKにしたわけである。この背景には、特にアメリカで今問題になっている子供の虐待がある。出生後すぐに子供が親と離れて入院してしまうと、親子の愛情関係が十分に育たないため、退院後、小児虐待などの問題を起こすケースが増えてきたことが引き金となっている。
病棟内には、心電図や呼吸管理装置の間にミッキーマウスやテディベアの縫いぐるみが並べられ、小さな頭には手編みの帽子がかぶせられている。呼吸管理装置は専門の医師が機械を取り扱うので担当の医師や看護婦は機械の管理をするだけでよい。看護婦たちの制服も様々だ。白地のパンツに、トップはカラフルなTシャツが多い。機能的で明るいイメージで好感がもてる。
補足であるが、開業医の診療所でほ、共同経営がよく見られる。一つのビルに2〜5人の医師が診察室を持つ。休みの都合で診察室を共有する場合もあるが、レントゲンなどの医療器械を共有できるし、たがいの専門分野の情報交換ができるので大変合理的で経済的だ。小児科では、子供達を怖がらせないように普段着で診察される。また、病気の説明や治療方針については診察室ではなく、ゆったりとした雰囲気の医師のオフィスで家族に説明されるところが印象的であった。
病院においてはボランティアたちの活躍も見逃せない。今回訪問した総合病院には、どこでも500人以上のボランティアたちが登録されていた。それぞれ自分の都合のよい日や時間を選んで簡単な手伝いをする。簡単ではあるが時間のとられる患者の移勤や、散歩、食事介助などをボランティアが受け持つ。受付のインフォメーションに座って、病院の案内をするおばさんたちがどこの病院に行ってもいた。患者の車椅子を押しているロータリアンにも出会った。実際、こういったボランティアの働きがないとやっていけないのが病院の実情であるということだ。
病院のボランティアの様子からも分かるように、アメリカの人々は福祉活動には熟心である。キリスト教の奉仕精神に支えられているところも大きいが、ボランティアの働きが社会活勤の一つとして認められ、社会に参加しているという意識をボランティアたちが持ち、誇りを持って、また、楽しんでやっているところに、活動力の源があるのであろう。とにかく、何か問題があれば、すぐにそれに取り組んで援助する姿勢があることは大いに評価しなければならないと思う。
今回訪間した中でUnited Way Agencyという全国的な規模の福祉団体があり、老人ホームから青少年厚生施設、ティーン・エイジ・マザーの保育所まで様々な福祉活勤が行われているが、素晴らしいことは個々の活勤が、たくさんのボランティアたちの働きと、地元の人々の経済的な協力によって支えられていることだ。スタッフの人達はいずれも使命感と誇りを持って仕事に取り組んでいる。
最後に訪問したFood Bankという民間援助団体もそういった組織の一つであった。この団体もアメリカ各地に広がって活動しているが、私の訪問したウインストン・セーラムの組織は、最初、ある会社から借りていた倉庫から自分たちの独自の施設に移動しようとしているところだった。墓金はもちろん一般の人々や企業からの支援でまかなわれている。この団体は、ダイエーやローソンのような一般の食科品店から期限切れの商品をもらいうけ、各慈善団体に格安の一定科金で食料を払い下げている。ここで食糧を仕入れるためにほ正式な手続きをふんで許可証をもらわなければならない。ホームレスの人々に毎日1回栄養豊かな食事を配給しているスープ&キッチンの団体もここで主な食料を仕入れている。
在庫品の見切り処分、過剰製造の整理など、どこからこれほど集まるのかと思うほど、山と積まれている。施設の若いスタッフたちが車で食糧を買いに来る。めぼしい品を見付けてレジに持っていく。レジにはボランティアのおじさんがいて許可書を確認してから食糧を計り、値段を計算する。何でも均一格安料金である。このお金は施設の運営費や専任スタッフの人件費の一部に回る。しかし運営費の大半ほ個人や企業の献金である。地域や企業の取組が積極的であることは、これからもよく分かる。企業にとっても福祉活勤に係わることによって、税金対策ができ、地域社会に受け入れられるための大事なアピールの場所作りとなっている。
福祉などの援助活勤は、どんどん盛んになっているが、逆に言えば問題もどんどん深刻化していっているということである。ホームレスの人々が一つの町の中に何百人もいるなどと、日本ではとても考えられない。また、未婚の高校生の母親にしても、子供を預かってもらい、政府の援助を受け、学校へ行くのもよいが、父親の責任は明確にされておらず、たいがい同じ過ちを繰り返す。ほとんどの未婚の母親たちは、片親しかいない。毎年30%もの青少年がハイスクールから落ちこぼれている。ドロップ・アウトたちは定職が得られず、麻薬や犯罪に走りやすい。ここはインドやアフリカのような未開地ではない。だれでも教育を受けることができるのに、算数もろくにできない人々がいる。
自由独立、アメリカン・ドリームの成る国では、成功者ほ広い一戸建ての家と、週末のバカンスを楽しむ豊かな生活をしている。貯蓄率は低くとも、広大な土地があり、資源のあるアメリカは、ある意味では日本よりずっと豊かな国である。物を作っては捨て、新しいものを買う消費破壊型の経済を進めてきたアメリカでは、デパートやスーパーには日本より安い値段でたくさんのバラエティのある商品が豊かに立ち並ぶ。同じ収入でも少し豪勢な暮らしができる。福祉制度も整っているし、教育制度も合理的である。それなのに内部の問題は深く、進行するばかりである。自己の権利を主張するあまり、崩壊してゆく家庭がたくさんある。人間の心は簡単には繕えない。子供達が先ずその犠牲になってゆく。小児虐待や、未婚の母、ドロップアウト等、様々な間題を生みだしてゆく。福祉活勤で、補っても根本的な解決がないかぎり、敗者は次から次へと増えてきて問題は膨らむばかりだ。
文明がこれほど進んできているのに、人々の心はすさんでゆく。宇宙を開発し、遺伝子を操作する科学技術を持ちながら、人類を守っていてくれている森林を破壊し、身体を侵す不健康な食物を摂取している。この方向はどこか間違っていると誰もが感じている。
アメリカの真の姿をしっかりとみつめることによって、日本にいる私たちほ自分たちの方向を見定めることができるのではないだろうか。同じ過ちを繰り返さずにすむのではないだろうか。そのためにも、相手を正確に理解し、情報を正しく交換しあうための手段、コミュニケーションについて考えてゆかねばならないと思う。
今回の研修で、様々な場所の説明を受けたが、言葉の壁もあり、余り良く知らない分野について説明を受けるときが一苦労であった。とくに専門用語が出てくるとさっぱりお手上げである。説明の状況を見たり、全体の文章を聞いて何とか意味がつかめるときもあるが、あとでパンフレットを見てみると全然見当ちがいのこともある。いろんなところで膨大な量のパンフレットを項いたが、できたら、基本的な説明のあるパンフレットは前もって目をとおしておいたほうがよい。そうすれば辞書で分からない単語を調べることも出来るし、説明される内容が理解しやすい。後で調ぺようと思っても、なかなか時間がないし、そうこうするうちに単語を忘れてしまう。それに、見学を終わってから、あのときこれをもう少し聞いとけばよかった、あれを見せてもらえばよかったと、後悔しなくてもすむ。なかなか行けない場所にあるだけに、見学する側の準備も十分するべきだと思った。予備知識があれば新しいことも理解しやすいし、大体予測が付くので英語の説明を聞いてもわかりやすい。
しかし、もっと深い相互理解のためには、言葉の問題だけでなく、基本的な人間関係におけるコミュニケーションが必要となってくる。例えば、見学の説明をしてくれる人が自分の知り合いだったり、その人と、個人的に親しみを持つときには、同じ説明でもずっと分かり易くなってくる。たとえ自分の仕事に直接関係のない分野の見学でも、いろんなアイデアを学ぶことができるし、相手にも、よい情報を与えることができる。基本的な人間関係ができている事が、言葉や文化の違いを理解し、受け入れることを、ずっとスムーズにしてくれる。ただ、ビジネスのためや、自分の欲しい情報だけを得ようと必死になると意外と役に立つアイデアが得られない。相手と人間的な絆を持つか持たないかが、コミュニケーションの内容を左右する。
ホーム・ステイの中で、家族と話が進むと、きまって出たのが湾岸戦争の話題だ。あまり深刻に話さないほうがよいと忠告されたものの、今更話題を変えるのも、もっと不自然だったので、私はいつも、戦争に対する自分自身の卒直な意見を話した。
アメリカの戦闘機で銃撃され、多くの友人を失った自分の両親から戦争の悲惨さを聞いている私は、戦争行為自体に断固として反対である事、またアジアに旅行し、現地の人と交流した経験から、日本人の戦争参加行為についてアジアでは根深い敵対心があることを話した。
アメリカでもベトナム戦争の悲惨さをくり返してはならないと思っている人もいる。私の意見に納得しないまでも、彼等はきちんと理解を示し満足してくれた。相手の疑間に対して、逃げたりごまかしたりするのでなく、自分の意見をきちんと述ぺる誠実さが、相手を納得させることよりも大事なのだ。たとえ相手が私の意見に同意しなくても、お互い基本的な人間関係は損なわれる事がない。
アメリカと日本の間では、いろんなビジネスや政治交渉がされているのに、アメリカ人は、日本人のごく一般的な意見を彼等はほとんど知らないというのにも驚いた。道ゆく車の半分以上は日本車で、ステレオやビデオは日本製品であふれている。それなのに、彼等はそれらを作ったわれわれの素顔を、全く知らないのだ。エコノミックアニマルに代表される、メガネ顔の働き過ぎの日木人のイメージしかない。でも一旦本当の私たちを知れぱ、彼等も心を開いてきちんと対応してくれるのだ。
私たちは、もっと、おたがいに歩み寄り、素顔を見せなければならない。アメリカ人が日本人を知らないほどに、日本人もアメリカを知らない。アメリカ人はみんな、外交的でおしゃべりだと日本人は思っている。でも、まじめで無口なアメリカ人もいる。それでも個人的に知りあえば、となりのおじさんと一緒だということか分かるのだ。一人が、一人を知れば、心も通いあう。心が通いあえば、いろんな違いを話し含える。おたがいに対する尊敬や理解も生まれてくる。一人ずつ、いちばん基本から始めれば、国際理解も難しくはない。
今回、このシンプルなルールに従っていく大切さを経験したことは何よりの収穫だった。
ある日本資本の会社で働くアメリカ人マネージャ一と、一緒に話をする機会があった。彼は、新しく来た日本人の重役とのやり取りに苦労していた。前の日本人経営者とタイプの違うせいもあるが、根本的な問題はコミュニケーションにあるという。新任間もないその日本人の重役はアメリカヘ来て2ケ月間、日本食レストランヘ毎日行っていた。私はアメリカ人マネージャーが苦労するのは無理もないなあと思いながら、関西の普通の人々について説明した。ノースカロライナの人達が南部の人間は、ニューヨークなどの北部の人間(ヤンキーズ)とは違うと言うように、日本人にもいろいろ種類があるのだ。話が終わって別れるとき、そのマネージャーは、私達のような日本人に会えて本当によかった。気持ちが楽になった。と言って、本当にうれしそうな笑顔を見せてくれた。ちなみにその日本人の重役には、別の団員たちがアメリカの楽しみ方をとくと話してくれていた。普通なら、大手の会社の重役と、平社員ぐらいの私たちとは、なかなか直接話をすることがない。でも、そこはさすがにロータリーの威力である。その重役も彼等の話を神妙に聞いてくれた。彼等が現在、よいコミュニケーション を持てるよう、おたがいに励んでいると期待したい。
今回アメリカに滞在している間にも、ロータリーの集会を始め、いろんなところで環境問題への取り組みが始められていた。今、私たちは、地球の歴史の中で、大事な決断を迫られていると言われている。アメリカン・ドリームによいしれて、一番大切なものを見失ってはたいへんだ。
日本とアメリカは、文化においても、科学技術においても世界の先端を行っている。この2つの世界の大国がおたがいに手を取り、学ぴあうなら、どれほど素晴らしいことだろう。そしてその知恵と技術を、目先の利益のために使うのではなく、一人一人が、本当の意味で、豊かに生活してゆくために用いられないだろうか。第三世界の人々の犠牲の上に成り立つような物質的な豊かさではなく、人類の生命を保護していてくれる地球を破壊しながら進む文明を開発するのではなく、子供達を犠牲にして得る自由でなく、この地球全体のことを考えながら、人と人との絆を育てながら、世界の未来を築くだけの知恵と技術を私たちは持っているはずだ。
私たち一人一人が、世界の現実を正確にとらえて世界の国々の人々とともに生きてゆこうとするなら行く先を間違わずに進むことが出来るであろう。