ブラジルという国

大石博雄

(R.I.第2660地区GSEチーム団長、(株)ワークアカデミー代表取締役、大阪北淀ロータリークラブ会員)

1.ブラジルとは

 サッカ−、F1レ−ス、サンバ、リオのカ−ニバル。我々のブラジルについての一般的な認識といえば残念ながらそれぐらいしかないであろう。

 現在ブラジルには多くの日系移民が在住し、彼らは日本とは密接な関係にあるにもかかわらずその概観については我々が知るところは、ほとんどないといってよいだろう

 今回我々を温かく力いつぱいwelcomeしてくれたのも日系のロ−タリアンであった。我々にとって遠くて不思議な国ブラジル。一ヶ月ではあったが、地区の皆様にできるだけわかりやすく、我々のとらえたブラジルについて述べてみたい。

<地理・気候・風土>

 ブラジルは、南米大陸北東部に位置し、ロシア、カナダ、アメリカ、中国についで、5位の面積(南米大陸の47.3%、851万2千平方キロメートル、日本のおよそ23倍)の面積を持つ広大な国である。

 気候は、アマゾン地域は熱帯雨林気候、中部高原と海岸平野は亜熱帯気候、南部は温帯気候でもっとも豊かな農業地帯となっている。このことは言いかえれば、常夏の太陽と雪が降っている地域を同時に持つ我々の想像もつかない大国だということである。

<人口>

 現在、約1億6千万人、人口密度は18人/平方キロメートルである。

 ブラジル社会は人種のるつぼといわれ、ポルトガル系、アフリカ系黒人、ムラトーが大多数である。他に、イタリア系、ドイツ系、日系、インド系、ユダヤ系、アラブ系などが集まっており、それぞれが人種のコミュニティを形成している。

<国の成り立ちと政治>

 ブラジルは、1500年にポルトガル人航海者によって発見され、ポルトガル領となった。当時、赤色染料の材料となる「パウ・ブラジル」という名の木が多く産出されたことにより、次第にこの地をブラジルと呼ぶようになったといわれる。

 ポルトガルは1530年、砂糖産業と牧畜を中心に移民を開始し、先住民インディオとアフリカから移入した黒人を労働力に18世紀中頃までにほぼ現在の国土に至るまでの開発を進めた。

 1808年のナポレオンのポルトガル派兵のため、ポルトガル王室は、イギリス艦隊の力を借りブラジルに逃れ、翌年リオデジャネイロに首都を移し、1816年、皇太子ジョアン6世が即位したのをきっかけにポルトガル・ブラジルは連合国となった。1820年、ナポレオンが失脚すると、皇太子ドン・ペドロをブラジルに残し、ポルトガル王室は、再び帰国。ブラジルをもとの植民地にとの思惑をよそに、ドン・ペトロ1世は翌年独立宣言をし、ブラジル皇帝に即位した。

 その後、ヨ−ロッパから大量に移民導入を行い、コ−ヒ−栽培等の振興が図られたが、1888年の奴隷制廃止で、帝政の基盤であった地主階級が離反し、1889年軍部が行ったク−デタ−により、帝政は崩壊、ブラジル共和国が誕生した。

 1964年、ブランコ陸軍大将が大統領になり、以来軍事政権が続いたが、1985年1月、広範な国民の支持により、ネペスが大統領となると、21年にわたった軍事政権に終止符が打たれた。

 現在のブラジルは26州から成る連邦共和国で、国家組織は日本と同じく行政、立法、司法の3権分立制である。現在の憲法は、1988年9月に制定された。

<財政・産業>

 1994年、カルドゾ元蔵相が大統領に就任し、同年6月までの月間50%に迫るインフレに、新しい経済安定化計画が打ち出された。その制作の一貫として、それまでのクルゼ−ロ・レアルから、1米ドル=1レアルとするレアル通貨を導入することにより現在はインフレがかなり抑制されている。

 主な産業は、農業、工業、鉱業である。コ−ヒ−が世界最大の生産国であることは周知の事実だが、農産物、同加工品が、全輸出額の25%を占めている。輸出で一番多い割合を占めるのは、自動車などの工業製品で、70%となっている。

 ブラジルは資源のたいへん豊かな国で、クロム、鉄鉱石、マンガンなどをはじめとした多種多様な鉱物を保有している。

 前述のように、現在インフレはやや落ち着いたものの、失業率と、1000億ドルを越える累積債務をかかえ、経済的にはまだまだ困難な状況にある。加えて、労働者の最低賃金は、月額120ドルといった安いものであるにもかかわらず、物価の面では先進国とさほどかわらないため、中流階級の貧困といった問題も抱えている。

 しかしながら、これだけ豊かな資源や、また多くの未開発地を有する国であり、今後の発展には無限の可能性を秘めているといえよう。

2.ブラジルにおける日系人社会

 日本人が日本以外の国家において、もっとも多く住んでいる国は、ブラジルである。現在その数はおよそ160万人に及んでいる。そのうちわけは、1世が約1割、2世、3世が7割を占めており、世代は大きく移り変わってきた。世代の交代とともに、近年この日系人社会が崩壊の一途をたどる傾向にある。それは、2世、3世達の非日系人との婚姻により、ブラジル社会と同化しつつあるという点から、そしてもうひとつは、第二次世界大戦前後のヴァルガス政権時代における政策により、日本語教育を禁止されるなど、日本文化の継承という点においてである。またここ十年あまり、日系人たちが日本に出稼ぎに行くため、日系人社会のなかで一時的とはいえ若者が減少していく傾向にあるのも事実である。

 このような問題を踏まえ、今後日本とブラジルが友好を続けていく上で重要なキ−となる日系コミュニティについてもう少し詳しく述べてみたい。

<ブラジル日系移民の歴史>

 1908年、およそ90年前に第1回目の移民船「笠戸丸」がサントスの港に到着して以来、25万人に及ぶ日本人がブラジルに移住してきた。

 当時ブラジルではドイツやイタリアからの移民が奴隷に代わる労働力として機能していたが、劣悪な労働条件、待遇のためヨ−ロッパ系移民の入国が途絶え、サンパウロのコ−ヒ−農場主は労働不足で深刻な打撃を受けていた。

 一方、北アメリカでは日本人移民の制限と禁止が行われたために、サンパウロ州政府の援助を受けて、ブラジルへの日本人の移住が開始されることになった。移民の大部分は、サンパウロのコ−ヒ−農場で賃金労働に従事する契約労働者であった。この州政府補助による移住者の数は、補助が打ち切られる1923年までに約3万3千人に達した。その後も日本政府はブラジル移住を積極的に奨励し、渡航費用補助、神戸移民収容所の開設、海外移住法の制定、移住者支度金支給など様々な措置を講じた。この奨励策のもとで1941年まで15万人以上が移民したのである。

 最初、コ−ヒ−農場の契約労働者であった移民も、借地農から転じて、自作農となるものが多くなった。それにともない、日系人同士による地域共同体が序々に形成されていった。

 第二次世界大戦後も、昭和40年代までは日本政府は移住の進行に力を入れていたが、昭和50年代になって、高度成長による経済の発展、生活水準の向上などを理由に南米への移住者は減少していった。

 戦後ブラジルにおいても日系人の都市への移住が進み、法律、経営、医療などの専門職に就く者が増えてきた。その背景には1世達が何をさておいても子孫に高等教育を受けさせたことがある。現在日系人の大半は中産階級であり、政治の面でも大臣、市長、州の議員などが生まれている。その活躍は目覚ましい。ロ−タリアンの数も人口に比較すると多く、4430地区の今期のガバナ−はスザノRCの森氏である。

<東洋人街リベルダ−ジ>

 サンパウロ市の経済の中心地パウリスタ通りから一歩入ったところに、赤い鈴蘭の形をした街灯や、日本風の鳥居の立ち並ぶ、不思議な町がある。日本語の本、日本風の食べ物、日本風の散髪屋などで、日本語で会話がやりとりされる。そういう日系人の多く住むショッピング街こそ有名な東洋人地区リベルダ−ジなのである。

 日本人が移民としてブラジルに本格的に入ってきたのは1908年であるが、それより2年前サンパウロに移り住んだ者がいた。藤崎三郎助という人物で、「藤崎商会」を創業して、日本商品をブラジル国内に売り込んでいた。この藤崎商会がリベルダ−ジ地区に借りていた一軒家で、藤崎家の炊事係の夫婦が離農者のためにペンションを開いた。他にもこのリベルダ−ジに合宿所のようなものが開かれ、この地区に日系人が集まりはじめた。彼らは家賃のやすい地下室に何人かでまとまって住み、味噌汁に鰯という典型的な日本人の食事をするという、一種独特な匂いに包まれながら次第に日本人街と呼ばれる小さな社会をつくっていったのである。

 その後も農業から他の職業に変わる人々がこの地に移り住み、戦後日本映画を上演する映画館が建てられたのをきっかけに、わずか20年間で今の外観をもつ街並みへと変化していった。

 現在このリベルダ−ジには、日系人だけでなく、中国人や韓国人も住むようになり、日本人街というよりは、東洋人街と呼ばれるようになった。そして現在もここには日本人の経営する店が多く集まっている。しかし、サンパウロ市内に近年新しく近代的なショッピングセンタ−が多く建てられ、その経営的な基盤は揺らぎつつあるように思えた。この古き良き時代の面影を残したリベルダ−ジが、近い将来廃れていくのはたいへん残念なことである。早い時期でのリニュ−アルが望まれる。

<日系コミュミティの将来>

 すでに述べたように、ブラジルの日系人社会は、2世、3世の時代に移り変わってきている。1世の人々の多くは、我々の経験からすると、日本食を好み、日本語を理解し、日本人であることに誇りを持っているといった、古き良き時代の日本を町並みの中にだけでなく、人々の心のなかに残しているというような印象を受けた。彼らの多くは、今だ日系人どうしの婚姻によって、日系人の子孫をブラジルの地に残していこうとしている。しかし実際、3世、4世の若者たちは、今やほとんど日本語を理解せず、アメリカ人の食べるようなジャンクフ−ドb全世界の若者が好むと同じようにbを好んで食べ、音楽にしても日本の演歌を歌うではなく、かといってブラジルのサンバを聴くわけでもなく現在の若者と同じくロックやニュ−ミュ−ジックを聴くというような状態である。

 ところで、このような状態はたしかにブラジルにおける日系人社会の崩壊といえるかもしれないが、こういう若者文化の変化というのは、何もブラジルだけに限ったことではない。ブラジルに滞在し日本をよく見てみると、我々日本人にしても、もはや純粋な日本人であるとは言い難いのではないだろうか。欧米人の中で、日本人は今だに着物を着、刀をさして歩く侍だと思っている者はもはや少なくなったと思うが、それでも、仁義に厚く、勤勉で、真面目な日本人というイメ−ジは現代の若者には見かけられなくなったように思う。日本においても、よき伝統文化の継承はもはや難しく、継承者のないままに廃れていったものも少なくない。

 それらをあわせて考えてみると、海に囲まれた日本の国ですらメディアを通じてどんどん外国の文化を取り入れているのに、ブラジルという多民族国家で生活する日系人たちがそれらにどんどん同化していくことは、むしろ自然なことといえよう。

 しかしながら、このような日系人文化とブラジル文化との同化は、日系コミュニティの崩壊につながるとして、日系人の中では危機感が生まれている。

 ブラジルの日系人たちの間では、日系コミュニティが存続していくうえで、大切な要素となるのが「日本文化」だと考えられている。今後日本の文化をブラジルで伝承していくために、我々は日本人としてなんらかの協力を日本サイドからもしていかなければならないだろう。日本とブラジルをつなげる大切な媒体になるのが現在出稼ぎとして来日している日系ブラジル人たちではないだろうか。彼らには日本との文化的交流という点において大きく期待がかけられているに違いない。それらを踏まえた上で、我々はこの出稼ぎの人々にどう接していくか、15〜16万人の日系ブラジル人が我が国に存在するのに、あまりにも我々との接点が少なすぎる気がする。

<出稼ぎ労働者の現状と将来の展望>

 我々が接した日系ブラジル人の多くは、すでに中流階級以上で、職業的には医者、弁護士、店舗の経営者、企業経営者等であった。サラリ−マンよりは、独立した職業に就いている方々が多いのが印象深い。この傾向は、おそらく組織的な大企業の中で、日系人が歯車のひとつとして上層に上っていくのが困難であったためと、日系1世の人々が、自分たちの時代には経済的に非常に苦労したため、その息子、娘にはできるだけ教育をうけさせようとしその高水準の学歴を生かした職業に就いたことからだと思われる。

 このように日系人のブラジル国内での生活水準は向上してきたにもかかわらず、日本への出稼ぎ労働者が後を絶たないのはなぜであろうか。

 第一の要因は日本とブラジルの賃金格差であることは言うまでもない。日系ブラジル人の日本の労働市場、特に第2次、第3次産業関連職業への参入は、1986年以後に起こった新しい現象である。1980年代の日本は、高景気、経済ブ−ムで、円高、および労働力の不足は、外国人を日本に引きつける主な要因となった。加えて、80年代のラテンアメリカの経済不況は、従来以上に中産階級に大きな影響を及ぼし、結果的にこれに属する人々が、より良い生活水準を求めて出国することを促すこととなった。この状況をいち早く察知し、労働者を搾取することによって安易に利益を得ようとする斡旋業者が登場しはじめた。彼ら斡旋業者は、ブラジル人にとつて高額の給料、魅力的な雇用条件、住宅の提供、日本語及び文化を学び、祖先の国を知ることのできる旨を約束した新聞広告を掲載し、日本への出稼ぎ労働者を募集した。その内大半は過剰広告で、日本語の勉強は愚か賃金の面でも約束が履行されないことが多かった。一方日本では、1987年〜1992年にかけて、経済成長が低下した中においても、一部3K労働者の不足が企業倒産の大きな理由のひとつとなり、必要に迫られてこのような斡旋 業者を通して外国人労働者を雇用していった。その内特に日系人は、高い教育水準をもち、従順で、風俗習慣に関して日本人に類似していることから、労働環境にとけこみやすいとして、日本企業にとつては大きなメリットを持っていた。こういった理由から、日系ブラジル人たちは日本に進出するようになったのである。

 現在日系ブラジル人が日本に出稼ぎとして来日している数は、およそ15〜16万人である。彼らの多くは、日本人が嫌がる3K、つまり「汚い」「きつい」「危険」な仕事に従事している。ある日系ブラジル人就労者の手記によると、彼らは住居として他の南米の日系人たちと同じ一軒家を与えられ、残業手当が高いことから寝る間も惜しんで長時間労働することにより、ようやく月30万円程を手にしている。一月生活にかかる必要経費が約10万円として、後の20万円を貯金し、2年から3年で、自分の目的の金額をブラジルに持って帰れるというのだが、この手記を書いた青年などは比較的まともな斡旋業者を通しての就労だったのだろう。やくざまがいの斡旋業者も決して少なくないし、一ヶ月の給料が日本人の半分ほどである場合も多いであろう。そうなると、計画していた年数よりも更に倍の年数働くことになり、このような外国人労働者にとって日本という国が冷たく厳しいものに映るであろう。我々もブラジルで、何人かそういう苦い経験をした人に出会った。

 現在、日本の景気は余りよくないが、そういう中にあってもこの3Kの仕事をこなす労働者として、日本企業は外国人労働者たちに頼らざるを得ない面を持っている。「出入国管理法」の改訂、「日系人雇用サ−ビスセンタ−」の開設、公共職業安定所のなかの「外国人雇用サ−ビスセンタ−」開設など、日本政府もこうした外国人労働者に対して様々な政策を取り始めてはいるが、例えば日系ブラジル人たちが、こうした一部の悪質な斡旋業者などの被害にあわないために、ブラジルには「国外就労者情報センタ−」をもっと多く開設し、日本政府と産業界はそれに対してバックアップ体制を協力して講じていくべきではないだろうか。

<新時代のパ−トナ−シップ>

 今回のブラジル訪問を通じて、我々には実に多くの新たな発見があった。日本企業の海外進出というと現在はアジアにばかり目が向けられているが、ブラジルを含めた中南米は目下のところ経済的に目覚ましい発展を遂げつつある。かつて中南米というと、軍事ク−デタ−、空前のインフレ、巨額の累積債務といった悪い印象ばかりであったが、現在そのイメ−ジは大幅に修正されつつある。ブラジルのように広大な土地を持ち、農工業、資源に恵まれた国とのつきあいは、経済的にも政治的にも重要な位置を占め始めている。ブラジルのなかでも日系人が然るべき地位を確立し始めた今、日本とブラジルとは一致協力して経済的にも文化的にも発展していく土壌がすでに出来上がっている。

 このような気運を反映してか、この夏大手自動車メ−カ−の「ホンダ」もブラジルに進出することになったようである。我々が今回訪問した5つの工場の技術は、どれもみな日本から10年以上は遅れているだろうと思われたが、彼らは日本の技術力をよく理解し、その受け入れに熱心である。今後は日本企業の進出によってブラジル国内に日本サイドからも最先端のハイテク技術と、経営ノウハウを提供していくことができるだろう。もっとも、経済進出については、ある面では常に批判をともなうものである。しかしながら彼らが我々日本人に一番望んでいるのもまさにこの点である。

 同じ日本人の血を受け継いだ人々が地球の反対側にも多くいることを知らされた今、この日系人の力を借りながら、我々は新しい時代のパ−トナ−として、ブラジルとの協力関係を築いていきたいものである。