アメリカを思い出す旅

〜アーカンソー州を訪れて〜

金重恵介

(KKミキハウス勤務、八尾東RC推薦、)

 Hello,my name is Keisuke Kaneshige. But I think it is difficult to call, so please call me K.C. It's my nickname when I lived in U.S. as a child.

 私の、アーカンソー州での会話は、いつもこのフレーズから始まりました。アーカンソー州は、THE NATURAL STATEというニックネームの似合う、豊かな自然に恵まれた、美しいところです。この素晴らしい場所で過ごすこととなった1ヶ月間は、私にとって大いに意味のある経験でした。この場をお借りして、松岡委員長はじめ、関係各位の皆様、第2660地区のロータリアンの方々、そして何より、1ヶ月もの間仕事を離れることを許して頂いた(それどころかGSEへの参加を積極的に支援して下さった)当社の木村社長に、心よりのお礼を申し上げます。

初めてではないアメリカ

 GSE研修の目的に、異文化を経験してくるというものがあると思います。異なる文化を経験することは、その人の幅を大いに広げるでしょう。その観点からすると、私は研修の目的から少し外れる立場にあるかもしれません。なぜならば私は、小学生の頃に3年間、アメリカに暮らしていたことがあり、アメリカ文化というものは十分に経験していたからです。もちろん、当時はまだ幼い子供であり、今回はひとりの職業人としてアメリカに行ったわけですから、見る視点というものも大きく違うでしょうし、当時住んでいたのは首都ワシントンDCの郊外で、今回はアーカンソー州という地理的な違いというのもあるでしょう。しかしそれでも、他の4人のメンバーと比べれば、私がアメリカ文化に対して大きく馴染みがあったことは、まぎれもない事実です。

 とすれば、私がこの研修に参加する意義は何だろう。他の4人とは明らかに違う立場の私が、他の4人と違う目的を持つとすればそれは一体なんなのか。約1ヶ月の研修を迎えるにあたって、常に頭をよぎったのはこのことでした。もちろん、子供の頃とは違う、職業人としての視点からアメリカ文化を経験するということは、それ自体意義深いものでしょう。しかしそれ以上に、1週間、2週間と研修が過ぎていく中で、私が実感するようになったことは、この研修が、自分のルーツであるアメリカというものを思い出す旅であるということでした。私の自己形成において大きな位置を占めているはずのアメリカ、その文化・社会を肌で実感しながら思い出していく、いわば、自分を見つけるための研修であったという点こそが、私にとって大いに意義深いものだったと考えています。

職業研修の目的について

 私は現在、(株)ミキハウス(三起商行KK)という有名な子供服の会社に勤務しており、その中で物流部門に携わっています。しかし、私の今回の研修のメインテーマは、アメリカの子どもと教育でした。GSE研修では、現在の職業の専門的知識の幅を広げることにポイントが置かれていますが、私の場合あえて、将来の職業に役に立つ専門的知識を勉強したいと考えたのです。

 私は、現在でこそ物流部門の担当ですが、本来は、子どもの教育に関わりたく今の会社に入社しており、入社後3年を経て出版部勤務となり子どもの教育に関わっていくこととなっている(正確にはそう言って頂いているということですが)からなのです。大学時代、教育を専門に勉強をしてきた自分にとって、アメリカの教育現場を生で見ることができるチャンスはとても貴重なものであり、自身の教育における専門性を大いに伸ばすことになると、確信していました。

 また、”出版部”ということから考えると、アメリカの出版業界について学ぶ機会もあればとは思っていたのですが、アーカンソー州はどちらかというと田舎の州であり、州内には出版社はほとんど存在しないとのことでした。これはあとでアーカンソー州を訪問してから伺ったことなのですが、アメリカでは出版社というのは、一部の大都市に極端に集中しているらしいのです。情報社会が浸透し、地方にいても都市と同じだけの情報が得られ、地方においてこそベンチャー企業が誕生している、あるいは大企業がその本社機能をあえて地方に移してきているアメリカにおいて、未だ出版社が大都市に集中しているというのは、意外な話でした。必要性があり大都市に留まっているのか、それとも移転が遅れているのか、どちらなのでしょう。

 もちろん、現在の専門分野である物流関係のことも、機会があれば大いに学びたいと考えていました。

出発までの準備と自己紹介ビデオ

 私は、今回のGSE研修はグループ全員にとっても、各地区のロータリーにとっても、日本とアメリカという意味でも、間違いなく成功であったと思います。自画自賛をしようというわけではありませんが、私達4人がメンバーとして選ばれたこと、リーダーが野村団長であったこと、このこと自体が準備という意味でも既に成功の要因であったのは事実でしょう。そして私達5人が出発に向けてそれぞれに準備をしたことも成功の要因でしょう。しかし、何にも増して私達が用意していった自己紹介ビデオが、今回の研修の成功に果たした役割は計り知れないと思います。

 もちろん、今回の研修はロータリーの交換派遣ということで、現地において、数々のロータリーの例会に出席し、そこでプレゼンテーションをすることが要求されていました。私達は、はじめは個人個人ふつうに話をし、最後に歌でも歌えば良いのではという話をしていました。しかし、アーカンソーからやってきたボブ・アルビーをはじめとする5人の、コンピューターとビデオを駆使したプレゼンテーションを見て、私達も何か視覚的に訴えるものをする必要があると考えました。そこで私達は、彼等のプレゼンテーションを参考に、自己紹介ビデオを作ることにしたのです。ここでは、私達が、力を入れて準備したビデオを使ったプレゼンテーションについて、順序は入れ代わりますが、紹介したいと思います。私達に与えられた時間は30分、私達は以下のようなプレゼンテーションを考えました。

私達のプレゼンテーション

 まずはじめに、野村団長の挨拶とメンバー紹介、日本地図を用いた大阪の地理的説明(約5分)。次にビデオに入り、大阪市のビデオをもとに編集した大阪紹介のパート(約30秒)を短く流した後、各個人の自己紹介のパートを各3分(計15分)ずつ流しました。自己紹介のパートでは、各自が用意した自分に関する写真を各自で割り振り、それをもとに自分のことについて、自分の学びたいことについて、目指すものについて、話をしました。そして皆の自己紹介が終わったあと、最後に、私達が一番こういう場に相応しいと判断した日本の歌、「ふるさと」をビデオで流し、共に歌いました(約3分)。ビデオの背景には、大阪城や天神祭りなど、大阪紹介の映像を織りまぜつつ。また、「ふるさと」を歌う前には、私達から一言、”この歌の名は「ふるさと」といい、その題名のとおり私達日本人に望郷の念を起こす歌で、長野五輪の閉会式でも歌われた歌です。私達が今ここでこの歌を歌うのは、アーカンソーが私達にとっての第二の「ふるさと」になればとの願いを込めてのものなのです。”という言葉を入れました。ここまでで、大体25分、残りの時間は質問を受ける時間としました。

 結果として、このビデオは非常に評判が高く、私達のプレゼンテーションは”今まで来たどのグループよりも素晴らしい!”と、お世辞もあるのでしょうが、最大級の賛辞をいただきました。今述べたプレゼンテーションの形は最終形で、はじめはもう少し整っていないものであり、回を重ねるにつれてこの形になっていったものでしたが、そうであるからこそ、メインのビデオの果たした役割は大きく、このビデオ製作を一手に請け負って下さった、メンバーの1人の阪上さんに、私達は大きな感謝を寄せています。

アメリカでの1ヶ月のはじまり

 5月3日の夕方、アーカンソー州のリトルロック市に到着し、アメリカでの1ヶ月が始まりました。この1ヶ月で、どれだけのものを吸収して帰れるか、期待と不安に胸膨らむときでした。

 実は、アメリカでの1ヶ月というと、私には、1つの経験がありました。大学時代の卒業旅行で、アメリカに1ヶ月間滞在していたのです。そのときもやはり、自分の育った国アメリカをもう一度体験してみたく、アメリカを旅行の地に選んだのでしたが、当時実行したのは、大陸横断・往復のドライブでした。レンタカーを借りて、友だち数人と、ロサンゼルスを出発してフロリダまで行き、再びロサンゼルスに戻るという、気ままな旅を、横断という名のロマンで包み、楽しみました。行きたいところに、行きたいときに自分達で行き、泊まるところさえもその日その日で決めていく旅で得たものは大きかったですが、その1ヶ月に負けないぐらい、いや、比較にならないぐらい充実した1ヶ月を過ごすのだと、心に誓っていました。

 空港で再会したボブの車に乗って、宿泊先のホテルに向かいながら、彼にそんな話をすると、「間違いない、この1ヶ月はK.C.にとって忘れられない程有意義な経験のつまった1ヶ月になるよ」と言ってくれたことが、その後の1ヶ月、常に思い出されました。

数々の訪問先

 私達は、結局、アーカンソー州北東部を中心に、Heber Springs, Searcy, Jonesboro, West Memphis, Osceola, Blytheville, Little Rock の7つの町を周り(途中に立ち寄った町も幾つかあります)、8つの家庭にホームステイしました。18のロータリークラブの例会出席、第6150地区大会の出席、数々のディナーパーティー、そして、数えきれない程の、研修の訪問先。1ヶ月というのは、本当にあっという間に過ぎるものです。すべての訪問先について、紹介することができれば良いのですが、そういうわけにもいきませんので、特に印象に残ったものにつ

き、述べていきたいと思います。

8つのホームステイ

 ホームステイと一口にいっても、一体どういうものなのか分かりにくいこともあるかもしれません。まずはホームステイ先の家族に受け入れてもらうところから、私のつけていた日記をもとに、再現してみましょう。

 今日も1日のメニューが終わり、あとはホームステイ先の人が迎えにくるのを待つのみだ。初めてのホームステイの先はどういうところだろうか。期待と不安が胸を渦巻く。待ち合わせの事務所に、1家庭また1家庭と、迎えがくる。皆それぞれに顔合わせを終えて各家庭に向かっていく。あ、どうやら僕のホストファミリーが来たようだ。

 「今日は。初めましてKeisukeです。K.C.と呼んで下さい。これから3日間よろしくお願いします。」挨拶をすませ、大きなスーツケースとバックパックを車のトランクに積んでもらう。車は高級車のリンカーンだ。さすがロータリアンは違うなあ。ホストファミリーの名は、TomとAudrey、ここHeberSpringsは、一線を退いた人たちが暮らす町だけに、二人も僕の祖父母と同じくらいの年頃だろうか。

 「K.C.は先生をしているんでしたっけ?」どうやら自己紹介の資料が正確に伝わってないらしい。確かにGSEのパンフレットの自己紹介欄を見ると、僕は教師をしている、あるいはしていたことがあり(大学で教育学部に在籍していたのみ)、出版社に勤めている(実際は子供服の会社)という誤解を受けるのも仕方ないような気もする。車内で誤解をときながら会話を続けていると、ある大きな家の前で止まる。

 「さあ、着いたよ。今日から3日間ここが君の家だ。自分の家と同じように、何の気兼ねもなしに、リラックスして過ごしてくれ。また必要なものがあれば何でも言ってくれ。」大きな家だ。とても老夫婦二人で暮らしているとは思えない。外見はれんが造り、前庭は芝生でおおわれていて広く、ガレージが家の中に大きくとってある。典型的なアメリカの家だ。すすめられるままに中に入っていくと、いっぺんに懐かしさに包まれる。アメリカで過ごした少年時代が頭をよぎったのだ。

 そのまま僕は1つの部屋に案内される。そこが僕の部屋だそうだ。アメリカの家にはたいがいゲストルームというものがあるが、この部屋はそれだ。十畳ぐらいはあるのではないかという部屋に、ダブルベッドが一つ、たんすと、ソファーまで置いてある。壁にはきれいな絵がかかっており、たんすの上やテーブルの上には写真が立ててある。アメリカでは家族の写真をこうしてきれいな写真立てに飾っておくことがとても一般的である。試しに質問してみると、「これはね、娘の写真で、これが私の母の写真、そして・・・」と、嬉しそうに話を始める。本当にアメリカ人は家族を大切にし、誇りに思っているのだな。

 「とりあえず部屋で、荷物を開いてリラックスできる服にでも着替えておいで。荷物の整理が必要ならすればいいし、疲れているなら休んでもいいさ。もしそれ程でもないというのなら、飲み物でも飲みながらこれからのことについて話をしよう。家の中も案内するし。」Tomが声をかけてくる。僕は多少疲れてはいたものの、やっぱりコミュニケーションが大切と、話をすることにした。もらったコーラを口にしながら、話を聞く。「飲み物はここにあるから、好きなときに遠慮なく飲めばいい。スナックはこっちの棚に入っているのでこれも好きなときにどうぞ。とにかく自分の家だと思ってアットホームに感じてくれ。」僕が少し緊張気味なのを察してか、リラックスしてほしいということを強調してくる。

 家の中を案内される。まずは僕の浴室。アメリカでは、トイレと風呂場は一緒。ただし日本のホテルのように狭くはなく、どこも広くゆったりとしている。ましてそれが、ゲスト用にもうひとつ用意されているのだから驚きだ。二人の寝室をちらっと覗いた後、ダイニングと居間。とにかく広々としていて、窮屈という言葉のひとかけらも浮かばない。居間からベランダに出ると目の前に林が広がっており、その向こうには湖が見える。景色も言うことはない。ベランダにはバーベキューグリルが置いてあるが、どうやら今日の夕飯はこれを使ってステーキらしい。「日本人は魚は好きらしいけど、肉は好きか?」と変な質問をされる。どうも彼等には彼等なりの日本人像があるらしい。これは夕食時にでも、じっくりと誤解をといていくようにしなければ。

 地下に降りるとそこはプレイルームだった。ビリヤードの台が置かれ、大きなステレオコンポと大画面のテレビスクリーン。映画と音楽を楽しめる部屋だ。ソファーもふっくらとしている。となりの、ガレージのような部屋には、地下用に冷蔵庫と、大きなモーターボートが置いてある。湖に、たまに乗りにいくようだ。その脇に小さな部屋があるので見てみると、パソコンルーム。特にAudreyが使うようだが、アメリカではこんなおばあちゃんのような人たちでもインターネットで遊んだり情報を得たりしているらしい。どれだけ情報化社会が浸透しているのかが実感できる。

 「さて、食事だけど、どうする、お腹は空いているかい?空いていなければ少し休んでからでもいいし。いつもは何時くらいに夕飯を食べているの?」普段は仕事が遅いので、いつも11時や12時に夕食をとっている僕だが、できることなら普通の時間に夕食はとりたい。もちろん二人ももうお腹の空いている時間だろうし、すぐに食べることにした。いつもの夕飯の時間を告げたときに、絶句されたのは言うまでもないが。

 Audreyが食事の用意をしてくれている間、僕はTomとテレビを見ながらいろいろな話をた。Tomはアルバムを持ってきてくれたので、お互いの家族のこと、アメリカのこと、日本のこと、それにクレージーな程長く働く僕の仕事の話など、たくさん話をする。またこの機会に、僕は日本から持参したお土産を持ってきた。僕は扇子や楊子入れ、お箸、匂い袋など、かさ張らず、日本を感じさせるものを中心に持ってきていたが、その中から幾つかを渡すと、非常に喜ばれる。また持ってきていた千代紙で鶴を折ってみせると感激される。Audreyも思わず手をとめ、会話に参加してきたので食事の準備は遅くなってしまった。そして食事の用意ができ、・・・

 というような感じで、私のホームステイは始まりました。私は、今回のGSE研修まで、ホームステイというものは、全く経験したことがありませんでした。日本においてさえ、全く知らない人の家庭に泊まることは緊張することであると思われるのに、いくら英語にそう不自由しないとはいえ、それが外国で、何日間か生活を共にするというのは、はじめは、考えただけで、気の重いものでした。しかし、それは、今思えば杞憂に過ぎませんでした。もちろん、ホテル暮しにくらべれば、気の使うことは多いでしょう。洗濯物ひとつ頼むのでも、なかなか切り出しづらいものでした。昼間のメニューで疲れていて、早く部屋に戻りたいというときにも、なかなか「そろそろ休みます」と言うタイミングが見出せないのも事実でした。だけど、それ以上に、得られるものの方が大きかった気がします。

ホームステイから学んだアメリカの文化

 それは、一緒に暮らすことで見えてくる”文化”であると思います。。もし私達がずっとホテル暮しだったのなら、きっと今のレベルまでアメリカ文化を理解することはできなかったでしょう。アメリカの家庭の内側を見ることができたのは、それだけで大きな財産です。アメリカ人がどれだけ家族を大切に思っているか、そして家族との時間を貴重なものと思っているか。仕事は仕事、もちろん時間内で最大限にパフォーマンスを発揮するように一生懸命力を尽くしますが、定時には仕事を切り上げ、家族と一緒に夕食をとることを大事なことと考える。休日は、自分の体を休める時間ではなく、家族と一緒に楽しむ時間。なぜなら平日から家族の中、ゆっくり休む時間がとれているからです。

 悲しいかな日本には、こうした土壌は、少なくとも私達より上の世代の人たちにはないと言えるでしょう。仕事で自己実現を目指すこと、それ自体は悪いことではなく、むしろ当然のことでしょう。けれどそれだけに力点が置かれた人生というのは、「K.C.それではバランスが悪すぎるよ」ということになるのではないでしょうか。自分の生活を充実させていくことにこそ人生の目的はあるのであり、仕事も、家族や友だちも、それぞれにその大きな要素であるのです。

 僕は、多様な価値観が存在することはもちろん認めますが、後世に何か自分の足跡を残したくて日本人は仕事に没頭しているのだという考えに関しては、次のような言葉で、価値観の変更を迫られました。「K.C.、自分が残す一番の足跡というのは、自分の子どもじゃないのかい。」これは、Little Rockでステイした先のRonの言葉ですが、頭を金づちで殴られたような気分でした。どんなに仕事で成功した人でも、たとえ社長になった人や総理大臣や大統領でも、自分の子どもがしっかりと育ってくれていなかったら、この世に心残りがあるでしょうが、自分の子どもが誰の前に出しても恥ずかしくなく育っていれば、たとえ仕事に成功していなくても、その人は満足してこの世を去ることができるのではないでしょうか。

 こういった深いところまで話ができるのは、やっぱりホームステイをしたおかげであると思います。昼間に訪問したたくさんの施設からよりも、一番アメリカのことについて知ることができたのは、ホームステイした先での会話からでした。

 Heber SpringsでのTomとAudrey、SearcyでのComer、JonesboroでのSteve、West MemphisでのBruceとKay、OsceolaでのDannyとMelinda、BlythevilleでのBill、Little RockでのRon、それからPaulとRebeccaには、アメリカ人特有の気の良さに加えて、南部ならではのサザン・ホスピタリティーで迎えてもらい、感謝してもし切れない程にお世話になりました。この場を借りてお礼を言わせて下さい。Thank you very much! I will never forget you all!!

アメリカの子どもと教育

 今回の研修で、私は計18もの教育施設を訪問しました。幼稚園や保育所、小学校、ミドルスクール、中学校、高校、大学、子ども博物館、教育研修センター(みたいなもの)など、その種類も豊富で、非常に勉強になりました。すべてを紹介することはできないので、印象に残っている点をポイントのみ述べていきたいと思います。

 まず何よりも印象深かったのが、コンピューターの普及です。大学はもとより、小学校、幼稚園にまで、日本と比較にならないぐらいコンピューターは普及しています。小学校でいえば、各クラスに1台から2台のコンピューターに加えて、コンピューターを使った授業用の、コンピューター教室までありました。そこには30台程のコンピューターが置いてあり、国語や算数の授業にコンピューターを用いるのです。小学校では、コンピューターの使い方を教えるというよりは、コンピューターを使って授業をして、子ども達の興味をそそること、効率の良い授業を行うこと(各個人の学力に応じて進んだり戻ったりできるシステムを導入している)、これからの社会生活に欠かせないコンピューターに慣れさせることに力点が置かれています。学校によっては、州の作った教材(!!)を用いているところもあれば、教育ソフトを探してきて用いているところもありました。州がコンピューターの教材まで作っているとはショックでしたし、日本の遅れを大きく感じた部分でした。しかも、さすがアメリカで、ユーモアに富んだ、市販のソフトと何ら変わらない面白さの教材なのです。また、コンピュータ ーを使うことで、画一化した授業ではなく、各子どもの能力に応じてそのコンピューターの中で進度が決められるので、子どもも無理なく学ぶことができます。このクラスで、自分の弱点を遡り、克服して、通常のクラスで、むしろ優秀な点をとるようになるということも間々あることらしいのです。

 これがミドルスクールのレベルになるともう一段階発展します。ここでその内容を紹介する前に、ミドルスクールというものについて少し話をしておきましょう。ミドルスクールは、位置付け的には、小学校と中学校の間に位置するもので、日本でいえば、4・5年生の学校であったり、6年生だけの学校であったり、6・7年生の学校であったりと、その学年は地区によって様々です。もちろんミドルスクールのない地区もあるのですが、アーカンソーでは、ほとんど学区に存在しました。各小学校から中学校へと上がるときに、小学校による学力の差というものを平均化するために設けているとのことらしいですが、もともとは、白人と黒人で小学校が別れがちなところを、こういう学校を設けて一緒にさせてしまおうというのが狙いだったみたいです。現在ではその効果ももちろんのこと、学区の同学年の子どもを一手に集めることで、様々な実験的な教育プログラムを行いやすいということで、その評価を高めているようです。

 さて、そのミドルスクールでは、コンピューターの使い方は、もう少し発展しています。インターネットを使い、世界中の学校とやり取りをしたり、共同プロジェクトを組んだり(例えば、学校のある各地の天気の状況を、理科の勉強とリンクさせて報告するプロジェクトなど)と、コンピューターに親しむレベルが上がってきます。

 さらに高校に進むと、そこでは、タイピングの練習に始まり、ワードやエクセル、さらにはページメーカーの使い方など、ソフトを使いこなす授業まで用意されています。そして自分達の卒業アルバムを自分達でコンピューターを駆使して作ったりと、コンピューターの操作能力は一気に向上してゆきます。

 大学では、コンピューターを使いこなせるのが当たり前で、ひとりひとりがラップトップのコンピューターを持ってくることが推奨されています。この時期に及んでは、もはやコンピューターは、自分のやりたいことをするためのツールの一つと化しているのです。まだまだ独学でコンピューターについて学んでゆかねばならない日本と違い、情報化社会の浸透したアメリカでは、コンピューターの良いところをしっかりと理解し、コンピューターを使えることが必須の技量とさえなっていて、そのためのプログラムがしっかりと出来上がっているところに、さすがアメリカというものを感じました。

 そして、その驚きを、ある小学校の校長先生に漏らすと、次のような言葉が返ってきました。「日本の方が、コンピューターの分野では進んでいるはずなのに、いざ教育現場になると、アメリカの方が先進的だというのは皮肉だね。」その時代時代の一流の技術を教育に取り入れていくアメリカのやり方に、日本の教育は、まだまだ学ぶところは多いのだなと実感させられた訪問でした。

 その他、アメリカの学校では、様々な教育手法がとられていて、ともすれば、教科書の読み聞かせと、形だけのグループ発表に終始しがちな日本の学校との違いをまざまざと見せつけられました。社会科の授業で、世界の国を知ろうということで、クラスごとに一つの国を研究して最後は文化祭みたいな形で、親や教育関係者などを招待して発表会をやるもの。算数の授業で、何人かのグループごとに、数学の持つ特質に着目(図形であるとか、数式であるとか)してゲームを作り、やはり、数学祭という形でそれぞれがブースを作って親や一般のひと相手にゲームを行うなど、その自由なアイデアは素晴らしく、それぞれを細かく説明したいところですが、概略だけにとどめさせてもらいます。

 概して、各学校の教師は自由だなと感じましたが、教育行政のシステムにもよるのでしょう。各学校では、こうしてユニークなカリキュラムを実施することで親の共感を得て子どもを集めれば、学区からもらえる予算も増える。学区もそうして子どもが集まれば、州からの予算が増える。こういうシステムのもと各地でユニークな教育が生まれる土壌が出来上がっているのです。学校も競争の時代に入っているということなのでしょう。

 中には教育資金を必要とするため、ペプシコーラと契約して、自動販売機を食堂に設置するところもありました。ペプシは販売機を設置してもらうだけのことに、学校に数万から数十万ドル支払うらしいですが、その効果は子どもの嗜好となって現れるらしく、そういう学校の子ども達は、家でもやはりペプシを欲しがるらしいのです。ペプシとしては現在のそして将来の購買層を獲得できるわけですから、してやったりですし、学校としてもそんなことでお金がもらえるなら喜んでという具合に、なんともアメリカらしい合理的なやり方も行われています。日本でここまでやる必要があるとは言いませんが、日本にとっても十分に示唆に富んだ学校経営ではないかなと思います。

 また、アメリカでは、通常の学校に、障害者学級が併設され、障害者と共に生きることや障害者に優しい町づくり(校内は障害者の動きやすいように設計されている)を学び、特に優秀な子どもや一芸に秀でている子どものためのクラス(Gifted And Talented)があるとともに、授業についていけない子ども達のためのクラスや、一部の学校では、教師が刺激が足りないと認めた子どもたちのためのクラス(Intensive Learning Center)などもあります。すべての学校が、日本であれば話題に昇るであろうユニークな学校であり、日本が学ぶべきところは大いにあり、その一部しかここで紹介できないのは残念ですが、私自身にとって、この数々の訪問は、教育学部で学んだ4年間よりも多くのものを与えてくれたと確信しています。

 加えて、保育施設や子ども博物館など、私のような子ども産業に関わる人間にとって、今後、政府・自治体との協力のもとすすめていくべき施設についても多くの有意義なものを吸収することができました。それどころかそれぞれの施設の方々から、”日本で我々が力になれることがあったら協力を惜しまないよ”と、暖かい励ましの言葉まで頂き、目に涙の溜まる思いでした。これらの経験が、これからの私にとって大きな指針となることは間違いないでしょう。

その他の訪問先

 その他、私達は、病院、工場、農園、新聞社、テレビ局、市役所など様々な場所を訪問見学させて頂きました。日本とアメリカの医療状況の違いに考えさせられたり、アメリカの農園のスケールの大きさに驚かされたり、日本でも入ったことのない新聞社、テレビ局内で妙にはしゃいでしまったりと、思い出はたくさんあります。アーカンソー州議事堂を見学し、州知事とも対面できたこともありました。

 私自身の仕事の話で言えば、アメリカにおけるミキハウス進出の可能性に自信を持てたことは、社内においても十分に検討してもらいたい内容です。特に、全米第3位のデパートチェーンの子供服のバイヤーにあってその話を聞くことができたことなどはその際たるものでした。多くのホストファミリーや親しくなった方々が、私がいつかミキハウスと共にアメリカに戻って来たいと言う話をすると、誰もが口をそろえて、”力になれることがあったら言ってくれ”と言ってくださったのはとても嬉しいことでした。いつかそういう機会があると信じています。

旅路の終わりに

 5月31日、朝の便で、私達は1ヶ月を過ごしたアーカンソーを出発し、第2660地区から頂いたボーナス旅行の場ニューヨークへと旅立つこととなりました。別れは寂しいものです。1ヶ月間面倒をかけつづけた、GSE委員長のKenや副委員長のLarryの姿を見ると、つい目の前が曇ってしまいます。でも私は、いや私達は、心に決めていました。必ず、いつの日か、このアーカンソーに戻ってくると。

 前の晩、私達はホテルでのフェアウェルパーティーに出席していました。その中で、このGSE研修で感じたこと、研修をとおして得たものを聞かれました。そのとき私は、自然と次のような言葉が口をつきました。「私は、アメリカと日本を繋ぐ橋になりたい。(I want to be a bridge between United States and Japan.)」と。自然と出てきたこの言葉こそ、私の見つけた、自分探し旅の答えだったのだと思います。

 あとで考えてみれば、かの新渡戸稲造氏も同じようなことをおっしゃっており、二番煎じのような気もしますが、そのときとはまた時代が違います。新渡戸稲造氏の頃のようにまだ日本が、アメリカという国をよく知らず、またアメリカも日本という国を知らない時代とは異なり、現代は、お互いの国でお互いの国の情報が豊富に行き来しています。にもかかわらず、ちょっとしたことから生じる無理解がもとで、様々な問題も起こっています。こういう時代だからこそ、私のようにこうしてアメリカの文化にも日本の文化にも十分に親しんでいる人間が、両国を繋ぐ橋にならねばならないのではないでしょうか。

 このことを心にとどめ、私は、これからの自分の道を模索していきたいと思っています。再びアメリカに、アーカンソーに戻ってくることを信じて・・・。