アンデルス・ロンゲ

(チームリーダー、ハルムストート刑務所長)

団員選考、準備その他

 団員の選考は、1994年9月に行われ、応募者47人の中から最終的に4人が選ばれました。競争は大変厳しいものでした。5月までの間に、いろんな機会に数回、主として週末にミーティングを開きました。事前準備とは例えば航空機のフライト、ユニフォーム、日本の知識、各種のパンフレットに記載される私たち自身についての情報、保険などです。しかし、もちろん最大の問題は、スウェーデンや私たち自身についての日本でのプレゼンテーションを最終的にはどのような形にするのかということでした。地区ガバナー、GSE委員長、また元チームリーダーやGSE委員会のメンバーの強力なサポートがありました。これらの人たちには異なったいろんな機会にお目にかかりました。大阪の松岡茂雄さんとはファクスや電話で多くの貴重な交信をしました。またエヴァンストンのロータリー財団ともコンタクトをとりました。

 チームにとって何も特別なことが起きていないように思えたときもありました。9月から5月までは長い期間に感じました。しかし、時は過ぎ去るものです。もちろん1月にあの恐ろしい地震に神戸が襲われたとき、私たちみんなが心配しました。この恐ろしい出来事にも拘わらず、また大阪のロータリアンに何らかの被害が有ったにも拘わらず、この旅行が行われたことに対して特に感謝致します。第2660地区からの日本チームとは4月28日のパーティで会いました。大阪での日程プログラムの入手は出発に間に合いました。それには必要な事や情報がすべて掲載されていました。

旅行

 5月4日コペンハーゲン発の直行便で出発、5月5日に関西国際空港(KIX)に到着しました。私たちはGSE委員会のメンバーから暖かくそして素晴らしい歓迎を受けた後、ホテルニューオータニに行きました。このホテルは、それだけで一つの章を設けて書く値打ちがあるくらいです。ここで私たちは最初の2、3日とその後の毎土曜日の夜を過ごしました。部屋は素晴らしく、良い食事、そして第一級のサービスでした。レセプションの女性は礼儀正しく、チャーミングで語学の知識も十分でした。ベル・キャプテンやベル・ボーイもよく働いてくれました。推奨されるべきホテルです。

 GSEチームが週末に同じホテルに集まることが出来たのは大成功です。ホテルでは、私たちの一人一人が自分だけで、あるいはまたグループになってリラックスすることができました。衣服を整え、プレゼントを用意し、次週のプログラムを準備しました。ホテルで過ごした最初の日々の間に私たちだけで大阪を探検してみました。そうこうするうちに、大阪は私たちが慣れ親しんでいるものに比べ、すべてのものが大変にビッグであることが分かりました。大阪市の人口は200万人以上ですし、大阪府はほぼ900万人で、これはスウェーデン全国の人口に相当します。

 5月7日の日曜日にはホテルで歓迎晩餐会が開かれ、すべてのホストファミリーが招待されていました。またすべてのロータリークラブから多くのロータリアンが参加していました。地区ガバナーの中野菫夫氏の歓迎の挨拶があり、この機会にこれからお世話になるすべてのホストファミリーと知り合うことができました。私たちの訪問に対するホスト家庭の関心は高く、暖かで、有り難く思いました。私たちの滞在の大変に良いスタートとなりました。この週末、GSE委員会のメンバーと会合を持ち、チーム全体としてのプログラムと個人個人の職業研修の説明を受けました。

 5月13日の土曜日には他の交換学生たちと共に大阪市立科学館に行きました。その午後、フェスティバル・ホールで開催された地区大会に出席しました。地区大会は3000人の参加者があり、私たちはガバナーから一人一人が起立紹介されました。西尾大阪市長もスピーチの中で、私たちの訪問について触れてくれました。

 私が一番感謝したいことは、多くの新しい人、日本の男性女性、ロータリアン、会社の代表者等々にお会いする機会を与えられたことです。もちろんその中には私のホストファミリーが含まれます。どの家庭も、それぞれのやり方で、滞在経験を忘れがたいものにしてくれました。次のホスト家庭に厚くお礼を申し上げます。中村さん夫婦とご子息、坂本さん夫婦、亀井さん夫婦とご子息、西尾さんご夫婦とお嬢さん、北村さん夫婦と子供達。いろんな面で私のお世話を頂いたホスト家庭の「お母さん」すべてに特にお礼を申し上げます。

 プログラムは非常に良く準備されていました。GSE委員長の大内さん、委員の松岡さんのご努力と思います。この人たちはいつも近くにいてくれました。一週間に何度もお目にかかり、問題があればいつも解決してくれました。GSE委員会の他のメンバーは、力石さん、橿村さん、橋本さん、大野さんで、これらの方々のから素晴らしいご助力と終生忘れられない友情を得ました。橿村さんは私の職業研修にすべて親切にお付き合い頂きました。この職業研修訪問は彼自身にとっても興味深いものだったと信じます。

 時には最初予定したプレゼンテーションプログラムを変更しなければならないこともありましたが、毎週新しいニュースを取り入れてプログラムを組む値打ちがありました。旅行中、異なったロータリークラブを多く訪問し、全部で13回のプレゼンテーションを行いました。それは数分くらいから、15分の全プログラムまでの幅がありました。

 もちろん言葉に関する問題はありました。というのは、すべてのことが通訳を必要としたからです。ほとんどすべての訪問でスウェーデン国歌が演奏されたばかりでなく、スウェーデン国旗が私たちを迎えてくれました。大阪ロータリークラブでは、スウェーデンのプリンセス・ケーキがデザートに出されさえしました。ロータリークラブのミーティングでは、お世話が行き届き、バナーやギフトの交換をしました。詳細の言及はしませんがスウェーデンと日本ではミーティングの進行が異なります。ある部分では日本のやりかたの方が優れていると思います。

 研修のための訪問先でも同じように暖かく迎えて頂きました。いろんな会社で、知識に富んだガイドの方や代表者の方々が案内して下さいました。多くの場所ではビデオによる説明がありました。訪問先では、いつも何かの飲み物、お茶、アイスコーヒー、ジュース等が用意され、快適でした。

 これらの場所やクラブを訪問するために電車、地下鉄、自家用車、タクシーを利用しました。時には長く歩いたこともありました。プログラムの途中で時間が差し迫ることもありましたが、交通事情が困難にも拘わらず、日本の人が忍耐強いことに気づきました。日本人はお互いに礼儀正しく、お互いの立場を尊重しています。

 大変に良いと思った経験は日本の食事です。朝から晩まで健康的な食事が大量に、また変化に富んで供されました。美味しいビールやウイスキーを飲み過ぎさえしなかったら、お箸もきっと上手に使えたことでしょう。

終わりに

 日本人の行動や生活に私は魅了されました。どこでも、ロータリアンやホストファミリーばかりでなく、みんなから、親切に、敬意を持って、礼儀正しく、歓びと謙遜で迎えて頂きました。いろんな方法で歓迎を受け、素晴らしい時を過ごしました。

職業研修

 職業研修に関する私の希望は、もちろん自分の職業に関係した場所の訪問でした。私は3つの刑務所と検察庁、地方裁判所、高等裁判所、交通警察、消防署を訪問しました。どの訪問もよく準備されていました。すべての場所で暖かく迎えられ、お世話を頂きました。

 団員別々の職業研修訪問の第1回目は堺市にある大阪刑務所でした。この刑務所は1882年に建てられ、1987年に全体的な建て替えが始められています。建て替えは来年に完了します。現在、刑務所には2445人の囚人を収容することができますが、来年3月からは収容能力は2000人に減少します。職員の数は653人です。刑務所長が直轄の職員とともに所内を案内してくれました。刑務所の職員も囚人も訓練と規律が厳しく保たれていました。全員が作業に就き、作業ペースに、だれた所は見あたりませんでした。囚人たちは、私たちが作業所を通り過ぎても、誰一人頭を上げたり、見上げたりしませんでした。作業に就くときも、作業から去るときも囚人達は歩調を揃えていました。囚人たちは入所1週間は観察期間で、その後4つの異なったクラスに分けられます。どのクラスに属するかは、囚人の行動如何です。行動が良ければ、扱いもそれだけ良くなります。作業の種類、研修、麻薬中毒者への特別感化プログラムは、私たちがスウェーデンで行っているものと似ています。日本とスウェーデンの違いは、脱走と刑務所内の麻薬中毒であるように思えます。この刑務所ではこのような ことが有るように見えません。外出許可は希ですし、監督を受けない面会はありません。

 和歌山の刑務所は1870年に建設され、1946年に女性専用の刑務所になりました。現在311人の女囚がいますが、収容能力は486人です。職員は123人で、そのうち93人が女性です。刑期の平均は2.5年ですが、7人は終身刑です。聞くところでは、日本中に5つの女性専用の刑務所があり、収容能力は1500人とのことです。最もありふれた収監理由は、窃盗と麻薬。女囚の30%は年齢約50才です。刑務所内の建物の一つの外側にロータリーのエンブレムが掲げられていました。なぜ、それがそこにあるのか、その時も、後からも正確な答えは得られませんでした。

 私の第2回目の職業研修は加古川刑務所でした。この刑務所は、当初、軍の施設として使用された後、1949年に使用が開始されました。現在566人の囚人が収容できますが、120人分は交通法違反者のためにリザーブされています。この刑務所には現在、男性の囚人のみが収容され、26才以下の囚人はいません。交通法違反の囚人のうち39%が無免許運転、17%が飲酒運転、44%が飲酒無免許運転です。交通法違反の入所者の半数は交通事故に関係しています。交通法違反者のセクションは一般の刑務所と完全に隔離されています。ここには、運転練習コースと訓練用の自動車があり、囚人達は刑務所にいる間に仮運転免許証を得ることが可能です。刑務所全体として大変に良く秩序が保たれている印象を受けました。また、作業は種類が多く量的にも十分なように見えました。刑務所内での麻薬中毒や脱走について質問しましたが、そんなことは聞いたことがないとのことでした。

 関係の方に良くして頂き、かつ、時間を割いて頂いたおかげで他の訪問も刑務所訪問同様に大変に興味深いものでした。私は大阪の裁判所を訪問する機会を得ました。地方裁判所と高等裁判所の長官にお目にかかり、情報を交換しました。私はスウェーデンの刑務所の運営について英語で多くの情報を話しました。各刑務所でも同じような情報を話しました。最高裁判所は東京にあります。高等裁判所は8カ所、家裁は50、地裁も50、簡易裁判所は448です。

 裁判も、一つ見学しました。陪審員はいませんでした。裁判官と地方検事それに弁護士がいるだけでした。裁判の進行はスウェーデンと同じように思えました。麻薬を使用しただけの一人の男が訴追されていました。地方検事は1年半の刑期を求刑しました。判決は2週間以内に下りるとのことでした。

 ラルスと私は大阪府警の交通管制センターと通信司令室を訪問しました。交通管制センターには54人が働き、巨大な管制ボードで交通が監視されていました。24のカメラが大阪に車が出入りするすべての主要な道路を見張っています。自動車の運転者には少なくとも7通りの手段で情報が与えられます。この方法にはラジオによる情報提供も含まれ、このセンターには8つ以上のラジオ局が専用の放送室を持っていました。大阪府警では5台のヘリコプターが自由に使えるようでした。大阪府には2万人の警官、64の警察署、650の交番(ポリスボックス)277台のパトカーがあります。1994年には99万回の110番コールがありました。一日平均2500回です。通信司令室では、140人の警官が3交替で勤務しています。

 6月2日、アンデルスと私は大阪市消防局の本部を訪問しました。全体で3600人の消防関係者が雇用されています。大きな消防署が25、小さな消防署が64。いろんな種類の消防車が223台、ヘリコプターは2台、消防艇が3隻、救急車は53台です。消防司令情報センターには2時間交替で21人が勤務。電話は223回線あり、一日平均1000回のコールがあります。年初から見学した日までに624件の火災があり、これは平均一日4回です。

 道路や交差点のサイズに合わせて消防車のサイズをいろいろ揃える必要があるのは興味がありました。この都市では場所によって道路が極端に狭いことがあるからです。緊急自動車はすべて、赤い警告灯をつけていました。これは私たちには初めての経験です。我々の青色灯は日本では別のものに使用されており、まごつきました。いろんな形の点滅灯がいろんな用途に使われていました。これは我々にとって一寸分からないことでした。

 出発の数カ月前には、広島への旅行がプログラムで計画されていると聞いていました。神戸の地震災害が、計画に変更をもたらし、この旅行が影響を受けました。夏まで鉄道の修復が間に合わないとの予測でした。しかし、日本人の能率とエネルギーが私たちの到着2、3週間前に線路補修を終えました。広島に人類最初の原子爆弾が投下されてから50年になります。GSEチームは、この地を訪れたいという特別な、そして強い願いを持っていました。数人のロータリアンが広島行きの列車旅行を5月20日に用意してくれました。この日、天皇が広島を訪れ、そのため我々の日程は少し影響を受けました。天皇の訪問に対してデモがあり、街は警官と警備の係員に溢れていました。広島平和記念資料館は私たちに強烈なそして忘れがたい印象を与えました。資料館まで歩いて行く途中、真珠の時計塔、原子爆弾記念塚、平和の鐘、平和の泉、平和の誓い、子供達の平和モニュメントとそしてもちろん原爆ドームを見ました。広島を訪れる機会を与えて頂いたことに対して、もう一度お礼を申し上げます。