ヘレン・ブラウンの報告

(自動車部品会社セールス担当)

選抜

ロータリーのGSEプログラムのことを紹介されたのは、全くの偶然からでした。私の父が、友人のゲーツヘッドロータリークラブ会員と、私の兄の日本行きの計画について話しているとき、GSEを今回は日本と行うので、私に応募する気があるかと聞かれたのです。

私はただちに応募用紙への記入にとりかかり、そのあとすぐ、面接に招かれました。次の週、びっくりしたことに、イアン・ウォーカーからの電話を受け、チームのメンバーに選抜されておめでとうと言われたのでした。

準備

チームの選抜の翌週、ハロゲートの地区大会に招待され、そこで私たちは、チームメンバーお互いにばかりでなく、大阪からやってきたチームにも紹介されました。ヘレン・イリングワースと私はハロゲートまで車で一緒に行きました。事務の間違いで、一部屋しかないが相部屋にしてもらえないかと言われ「チームのきづな」はさらに深まったのでした。地区大会のセッションのあと、大阪からのチームと昼食をともにし、その午後を一緒に過ごしました。彼らのそれまでの体験を聞き、次の年の5月に私たちが訪問する地域の話も聞く良い機会となりました。

つづく5ヶ月間、私たちのチームは、定期的に会って、プレゼンテーションの内容を議論しました。コスチュームに絵を描き、旅行の手はずや保険のことも話し合いました。10年前に日本に行ったチ ームのリーダーだった、ジョン・サザリングが参加した一夜は、情報に富んでいました。彼の思い出話は、全チームに、必要だった熱意を注入しました。

1月にはタインマウスカレッジの夜間クラス、「初心者向け日本語」に通いました。それは、「今日は」などの日常挨拶用語をマスターする役に立ちました。

「私の名前は・・・」「お目にかかれてうれしいです。」マリリン・ポッツは、週末の日本語クラスを4回アレンジしてくれました。この授業は日本語を教えるだけでなく、日本の歴史と文化に対する洞察を与えるよう構成され、大変有益でした。

克服しなければならない、最後のハードルは、チームのユニフォームを見つけることでした。すぐまとまったのは、スカーフは着けないことでした。難しかったのは、エマ(5フィート10インチ)、ヘレン、そして私(たった5フィート1インチ)にフィットするスーツを見つけることでした。

出発

世界の向こう側への14時間の旅に出掛けるため、突然、あまりにも早く、ニューキャッスル国際空港で、出発を待つばかりになりました。イアン・ウォーカー、ジム・サザリングそしてテリー・ロブソンが見送ってくれました。大変重い荷物のチェックが終わり、チームの写 真を2、3ポーズ撮ってから飛び立ちました。

到着

関西国際空港では、松岡茂雄委員長を含むGSE委員会のメンバーから、温かい歓迎を受けました。委員長は私の第1週のホストになっていて、他に日本のGSEチームのメンバーも2人いました。ホテルまでは、ミニバスで50分かかりました。ホテルでは、簡単なランチを食べながら、プログラム全般 についての説明がありました。最初の2日間はホテル・ニューオータニで過ごしました。時差を解消し、大阪を少しばかり探検することができました。

ホストファミリー

大阪滞在中、私たちはそれぞれ、4家族のお世話になりました。これは一つの救いであることが分かりました。日本チームは英国では8つのホスト家庭に泊まったので、お互いに良く知り合いになる時 間がなく、また荷物をパックしたり、開いたりするのに時間を多くさかねばなりませんでした。毎週土曜日には、ホテル・ニューオータニに帰り、一夜を過ごしました。リラックスすると同時に、その週経験したいろいろのことを話し合う素晴らしい機会になりました。

私のホスト家庭は、とても親切でオープンに私を家庭へ迎えてくれました。私は、日本で素晴らしい友情を結びました。手紙や、電子メールで連絡し続けるとともに、また将来、この人たちを訪問したり、もし北東イングランド訪問の機会があれば、私の家や家族で歓迎したいと望んでいます。

日本訪問以前は、食べ物のことが心配でした。一ヶ月、生の魚ばかり食べるものと思っていたのです。実際は、日本食は変化に富んでいました。多くのタイプの魚(生、調理済みのもの)、肉料理、ヌードル、野菜等を楽しみました。食事は概して楽しく、ホスト家庭のおかげで英国へ多くのレシピーと食材の話を持ち帰ることができました。

プログラム

私たちは、全般にわたる、またよくオーガナイズされたプログラムを与えられました。印象的だったのは、毎日のスケジュールや集合場所がホスト家庭によく徹底していたことです。私たちは、集合場所へ同道してもらい、その日の終わりには、ホスト家庭が待っていてくれるのでした。

大阪市は有力な産業都市で、日本の輸出、輸入の多くを行っています。港から始まり、この都市は人工島をつくって海へと拡大しています。二つの大きい島は、関西国際空港(現在、滑走路は1本ですが、第2の滑走路が計画されています)と舞洲スポーツアイランドです。舞洲では2008年のオリンピック開催計画を促進するため、多くの建設が進行中です。(スタジアム、ホテル等)

出発前の想像していたように、スカイラインを多くの高層建築のオフィスやホテルが圧していました。地下鉄や列車は非常に混み合っています。特にラッシュアワーはそうです。しかし、それだからといって地上の交通 量が減少しているようにも見えません。何百もの自動車や自転車が4レーンの道路と信じられないくらい狭い測道を走っています。その両側には小さい店や電照サインが有ります。自転車は歩行者を押しのけて歩道を猛スピードで走ります。自動車はどこにでも駐車します。それも駐車が許されていないところに。多くの交通 巡査が交通切符を切っているのを見ました。ある通訳の方が、大阪人はルールを守らない(駐車、スピード等)ことで日本中で有名だ言いました。私たちもそのことに気が付いたと返事しました。到着のその日、大阪城公園へ散歩に出掛けましたが、「魚釣り禁止」のサインのある1メートル横で魚釣りをしている人を見かけたのです。

都市とは対照的に田舎は大変静かで、山は緑に覆われています(英国のような荒々しい岩山でなく)。お寺には素敵なお庭や池があり、全くの静寂にひたりながら一日中座っていることができます。ところが、天満宮のような神社やお寺が、町の真ん中にあると知って驚かされました。お寺へ行くとプログラムには書いてあるのに、ショッピングセンターの中を、ホストと私が歩いて行くので不思議がったのを思い出します。横道にそれると、50メートル先に神社の門があるのを見て驚きました。境内へ入ると町の騒音や喧噪からは全く遮断されました。

私の好きなお寺は、もう間違いなく三十三間堂でした。柱と柱の間の空間が33あり、世界で最も長い木造建築(118メートル)で、中には1001体の観音像(仏教の神)が互い違いにまつられています。完成したのは1164年ですが85年後には焼失し、建物と仏像は再建されねばなりませんでした。実のところ、私たちの訪問したお寺の多くは何時の時期かに再建されたものでした。木造ですから、燃えやすいのです。

私たちはまた、多くの電子関係のメーカーを訪れました。シャープ、パナソニック、サンヨーの製造工場あるいは、研究開発ラボラトリーでした。ある日職業研修で、シャープの技術記念館を訪れる素晴らしいツアーがありました。そこで、この会社の名が彼らの最初の発明品(「エヴァーシャープ」ペンシル、芯引き込み式)から取られたものであることを知りました。それからLCD(液晶ディスプレー)の製造ラインを見学しました。そこでは空気の清浄さが最も大切で、その条件は厳しく、スタッフは頭から足まで防塵服に身を包み、24度の恒温室で12時間シフトの勤務をしていました。しかし、従業員の余暇施設は印象的で、彼らとその家族のために、ゴルフ練習場、レストラン、カラオケ、理容室などがありました。

お茶席は日程の中で定期的にありました。4週間の滞在が終わるまでに、チームはお茶を飲む「アート」に十分慣れました。もっとも、10分以上正座することは、いまだにできません。足が痙攣し、ピンやや針やらを感じ、足の感覚がすべてなくなります。 もちろん、その他多くの、忘れがたい経験があります。世界最長の吊り橋である、明石海峡大橋を渡って淡路島へいったこと、大阪ワールドトレードセンターの展望室からの眺め、海遊館の有名な甚兵衛鮫、お茶の先生の家でお茶をいただいたこと、立ったままローラーコースターに乗ったこと、新幹線つまり弾丸列車で旅行したこと。このリストはまだまだ続けることができます。

もちろん、GSEのメンバーとして日本を訪問したことがドアを開き、殆どの観光客が体験できないことが可能になったのです。大阪市役所を訪問して、市長さんに会い、市議会の議場を見学したこと、伝統的な日本舞踊をプライベートに見せてもらったこと、びわこオペラハウスへ行き実際のリハーサルが行われているのを見学したこと、大阪市大付属病院のディレクターにお会いして施設を見学したこと、屋上のヘリコプター発着場に立ったこと、四天王寺の五重塔のてっぺんまで登ったこと。このリストもまだまだ続きます。

どうしても言い忘れてならないのは、広島への旅行です。この博物館の目的は建設的なものです。誰かを非難はしていません。そのかわりに、核兵器によって引き起こされた恐怖と破壊を常に全ての人に思い起こさせるための記念館なのです。今日まで、核兵器が実験される度に、広島の市長は実験をしている都市の市長に宛てて手紙を出し、1945年8月5日8時15分に起こった恐怖を思い出させます。たった一つの建物、原爆ドームだけが残って建っています。修復はされていません。瓦礫や残骸が建物内や破壊された壁の周囲に残されたままです。

広島からの建設的なノートには、平和と未来に関する圧倒的なセンスがあります。この博物館を訪問していた学生の数人が、平和のメッセージを交換するために私たちを招きました。彼らは私たちに平和のカードをくれました。そこには上半分に彼ら自身のメッセージが書かれ、下半分に私たちもメッセージを書きました。カードは二つにカットされ、お互いが相手のカードを持ち帰りました。

私たちは全部で11回のプレゼンテーションをしました。そのうち9回はロータリークラブで行いました。それらはすべて、よく受けとられました。英国と対照的に、日本のロータリークラブは概して会員数が多く(60〜350)、ミーティングは「ロータリーソング」と日本国歌で始まります。私たちの訪問中は英国国歌も演奏されました。ロータリークラブからは歓待され、私たちの地域に純粋な興味を示してくれました。私自身、追加でロータリーの夜例会に3回招かれ、私の日本体験と日本の印象についての短い、インフォーマルなスピーチをしました。

帰国

帰国2日前に、多くのホストと大阪湾クルーズで一日を過ごしました。つづいて西宮マリーナでお別 れパーティが「さよなら、またいらっしゃい」というタイトルでありました。私の感情は複雑でした。家に帰って家族に会うことを待ち望みながら、滞在中にできた多くの素晴らしい友を背後に残したくなかったのです。

結論

GSEプログラムは若い専門職業人が参加する価値が十分の素晴らしいプログラムです。私は、心から、このプログラムを人に吹聴したく思います。観光客として訪問するのとは異なり、ホスト家庭と生活することによって、ホスト国の本当の文化やライフスタイルを体験する希な機会を与えられのです。それは、新しい思考法に心を開き、新しい人たちに会い、彼らから学ぶ機会です。

謝辞

この交換に携わって下さったすべての方に感謝申し上げます。あなたがたがなしでは、こんなに大成功の旅行にならなかったでしょう。中でも特に下記の方々に感謝します。

・ イアン・ウオーカー(1030地区のコーディネーター)
・ スポンサーであり、支援してくださったゲイツヘッドRC
・ 最初のサジェストと、変わらぬサポートを下さったシド・アトキンソン(ゲイツヘッドRC)
・ 日本語クラスのマリリン・ポッツ
・ 1ヶ月の不在を許してくれたMKL
・ 大阪のホスト家庭すべてに、そのホスピタリティに対して
・ 2660地区のGSE委員会松岡茂雄コーディネーターと委員会のみなさんに、優れたプログラムに対して
・ 最後に同僚のチームメンバー、エマ、ヘレン、アンドルー、ハワードへ、旅行中の友情とサポートに対して

コメントと提言

GSEプログラムは、もうすでに優れたプログラムですが、以下に述べる提言が、さらに良くするための一助になることを希望します。

・ 過去のGSEチームメンバーと話した結果、ホスト家庭と良く知り合うために、一家庭に最低でも1週間の滞在を標準とするべきである。
・ 日本のGSEチームには本当によくお世話になった。派遣チームは受入チームともっと関わりを持つべきである。たとえ、非公式な夜の外出や土産物のショッピングにしても。
・ 最後の週のプログラムを検討するためにプログラムの半ばでGSE委員会とミーティングがあり、役だった。チームからのインプットは歓迎され、修正が加えられた。
・ ホスト地区によってチーム員の専門職業がクリアーに理解できないときは、関連性のある職業研修のアレンジのために、より以上の情報が求められるべきである。
・ 1030地区で、将来のGSEプレゼンテーションのためにスライド保存のセンターがあれば有益。 ・ ユニフォームを作る業者があれば助かる。ズボン、スカート、ジャケット。男女混成チームのユニフォームを見つけることは困難な仕事だから。
・ プログラム自身にもっとパブリシティが必要。もっと多くの人がGSEのことを知り、プログラムに参加するために。チラシを地区内の企業に送り、候補者の推薦を奨励しては?