チームリーダー、ハワード・ディクソンの報告

(ヘキサムRC会員、展示デザイナー)

「失礼ですが、英国からいらっしゃったのですか?」

「はい、そうですが」

「それでは、ハワード・ディクソンさんですね。あなたはアンドルー・バークスさん。それから、エマ・ダフさん、ヘレン・イリングワースさん、ヘレン・ブラウンさん。」

細部まで正確でした。質問者は空港にあふれた日本人の中から現れて私たちに挨拶したのです。GSEで旅をしているものにとって、こんな挨拶は珍しいものではないでしょう。しかし、私たちにとっては全くの驚きでした。それというのも、その空港はアムステルダムであり、私たちは最終の目的地である大阪まで11時間の飛行を残していたからです。

安封嘉一さんと、微笑んでいる小柄な奥さんのヨーコさんが、自己紹介しました。この人たちは、日本滞在第3週のエマのホスト家庭だったのです。彼らはヨーロッパを訪問し、私たちと同じフライトで帰国する途中でした。またへレンBと私は花束とチョコレートを、最近迎えた、あるいは近々迎える誕生日のプレゼントとして頂戴しました。このような配慮と準備の良さは、それからの4週間、ホスト家庭で受けたもてなしの典型的な前触れでした。

選考過程

私が、1030地区と2660地区のGSE交換に参加したのは、いまから16ヶ月前、両地区がペアを組んだ時のことです。私は、前年度のGSEにホストとして関係しましたが、団長として応募する気になったのは、長い間の願いであった日本への訪問が告げられたからでした。私は、すぐさま、(団長になる)関心があることを表明し、いままで主としてナショナル・ジオグラフィック誌で得ていた日本についての限られた知識を強化するために、調べ始めました。所属ロータリークラブのサポート、会長のテリー・ロビンソンの激励を受け、応募書類に必要事項を記入、8月1日の面 接を迎えました。

面接それ自体のことはあまり記憶にありません。おそらく、私が新しく見つけた学習知識を披露する機会が与えられなかったからでしょう。委員の面 々は「こんなこと、あんなことが起きれば、キミはリーダーとしてどうするか?」に質問を集中しました。この件に関しては、地区ガバナーのジョン・ビラニーがその晩、「おめでとう。日本行きがきまったよ。」と電話を掛けてきてくれたというだけで十分でしょう。

次のステップ、9人の候補者の中から4人のチームを選ぶのは、たやすいことではありませんでした。嬉しいことに、以前のチームリーダーたちから、アドバイスを受け、発生するかもしれない問題についての知識、例えばチームメンバーが突然脱落せざるを得なくなる場合のあることを知りました。必要な場合、私には有能な予備軍がいることを知り、慰められました。地区大会の前に打ち合わせをして、日本のチームが当地区に滞在している間に会うことができました。このことはみんなの役に立ちました。私は彼らの滞在中に、自分の家へ夕食に招くことができたことを、その時のホストだったコンセットRCに感謝します。この夕食を中村ケン団長は「特別 のご馳走ではないが、普通の英国家庭での上等の食事」と述べました。

ケンと私は、彼らの出発前に最初の電子メール交換をしていました。電子メールは友情を生み、継続させるのに大きな利点があります。「ウエブ」抜きのGSE組織はもはや考えるのが困難です。10月初旬に、我々の新しい友が日本に帰った後、我々のチームは7ヶ月の準備期間がありました。この期間に電子メールは大活躍をしました。

準備

旅行の計画と実施について書くことはほとんどありません。これは、問題がなかったと言うことです。地区のロータリー財団委員長イアン・ウォーカーは、いまでは、ベテランのGSEオルガナイザーですが、書類つくりは完了していると保証し、決定した日程についての連絡と、ちょっとした変更のあった旅行手配をしてくれました。こうして私は、チームの準備と、極めて重要なプレゼンテーションを個人のタレントを最高に発揮できるように準備する自由を得ました。警告されていたような落とし穴は何も有りませんでした。チーム員に変更はなく、任務に忠実、なかんずくその後の交換をつうじて、仲の良い友達として行動できたのが最高でした。

クリスマス以前に、我々は2、3回会って、国際ロータリーは我々に何を要求しているのか、この交換によって、どんな機会が提供されるのか、どんな障害が我々を待ち受けているのか、どうすれば我々は自分達の役割を十分に果 たすことができるかを議論しました。チームメンバーの誰も、スポンサークラブから聞いた以外にロータリーについての経験がありません。私は、GSEの今までのプログラムと私の新提案について彼らが積極的にまたオープンに反応してくれたのを喜びました。我々は自分でゴールと締め切りを設定し、ミーティングの覚書をつくり、アイデアを交換し、このようにしてグループとして親しくなり、快適な関係になりました。

日本語会話がいくらかできるように努力しようと、始めに合意しました。我々は、2660地区チームの英会話のレベルに感銘を受け同じことが日本語でできるとの幻想は持ちませんでしたが、少なくともホスト家庭と挨拶を交わすことができるべきだと決心したのでした。地区ガバナーのジョン・ビラニーはプレゼンテーションのスピーチも日本語でするように我々に要請しました。これは1990年に、いまはパストガバナーのジョン・サザリングがリーダーで仙台地区を訪れた1030地区チームが以前に行ったことでした。そこでクリスマスや2000年のお祝いも遠い過去となった2月早々のある寒い木曜日の夜に、アドバイスの恩恵に預かるため、我々はジムと会いました。恩恵はありました。5週間の集中的な語学クラスでスピーチの発音を学んだと、彼は説明してくれました。彼は写 真やら、お土産やら、自分が持っていったもの、お返しにもらったものなどのサンプルを見せながら、その交換の話をして楽しませてくれました。ジムの熱中は伝染し、その宵の終わるまでに、我々の精神は舞い上がり、全チームに火がつきました。出発までにあと3ヶ月しかないという現実に向かう準備ができたのでした。

その次の週から、2時間の授業が10回の夜のクラスが始まり、我々の準備の中で最も価値のある要素の一つとなりました。我々が学んだ簡単な単語や語句は、3月の終わりに計画されているロータリーがスポンサーの語学/文化研修を最大限に利用する役に立ち、また、究極的にはホストを驚かせ、親しみを得、大阪にいる間の単純な日常的なシチュエーションの中で、見知らぬ 人たちに理解してもらえると思いました。夜のクラスは9時に終わり、そのあと会って我々のプランやプレゼンテーションを考えました。

その時までに、我々はプレゼンテーションでのトピックの個人への割り当てを済ませ、我々自身や地区についての話に加えて、音楽や歌やダンスそれからコスチュームまで含めることにより、パーフォーマンスをもっと面 白いものにすることに同意していました。我々は歴史、宗教、産業、地方文化、民謡、未来の発展をスピーチに盛り込み、それをスライドにし、しかるべき時に、コスチュームに隠された2枚の大きな絵を拡げて見せることにしました。1枚の絵は、地方の伝説「ラムトン・ワーム」(我々自身の竜)を描写 し、もう1枚は、我々の使命「1030地区と2660地区の架け橋つくり」を表しました。プレゼンテーションを通 じて誰もがそのタレントを最善の効果で発揮することができました。例えば、エマのフルート演奏、ヘレンBの歌を前面 に出し、他のものも、持っているとは思わなかった自分の才能を発見したのでした。
ドラゴンのプレゼンテーション
架け橋のプレゼンテーション

先に述べた語学と文化のトレーニングのコースは、極めて重要な背景知識と、マナーやエチケットについて、重要な、して良いことと悪いことを教えてくれました。このコースは我々のプレゼンテーションの重要な一部となり、これに費やした時間は訪問中、見事にペイしました。我々は最終のスピーチの一部を翻訳してローマ字表記にしてもらい、発音の練習ができるよう、録音してもらいました。自分たちの個人的な紹介は日本語で行い、続いて英語で我々の地域を紹介するという妥協は、2660地区の松岡茂雄GSE委員長とメールを交わした結果 生まれました。彼は日本のオーディエンスは我々が英語でしゃべることを予想しているから、日本語は2、3語必要なだけだと確約しました。

おそらく、払った努力のせいでしょうか、あるいは地区ガバナーの要請に応えねばならないと思ったせいか、またホストに感銘を与えようと考えたせいか、2,3語でよいという考えにがっかりしたことを認めざるをえません。そこで我々は頑固にも、それぞれ半ページほどの日本語のスピーチに執着し4月に3つのロータリークラブでプレゼンテーションしました。彼らは大いな感銘を受けました。それもそのはず、彼らは一語も分からなかったのですから。そこで我々は間違った自信を持って準備を終えました。一ヶ月分の衣服、贈り物、台本、コスチューム、先に送り残した冊子類を一人一つのスーツケースに詰め込み、パンパンに膨らんだ手荷物をつくると、突然出発の日がやってきました。ジム・サザリング、イアン・ウオーカー、テリー・ロブソンが見送りに来ました。次の空港は、アムステルダムです。

第一印象

我々のエスコート、安封さんとの予期しない出会いの後、何もすることがなく、しかも眠れない飛行を続け、5月5日の8時40分、青い大阪湾に浮かぶ直方形の土とコンクリートの人工島、関西国際空港に降り立ちました。設計イタリア、英国の技術を使った未来的デザインのターミナルビルディングは、軽く、広いインテリアとしみ一つない清潔さで、私たちの疲れた眼にも印象的でした。

もう一つの歓迎シーンがありました。一群のロータリアンが私たちに挨拶しました。心準備をしていたような堅苦しさはなく、固い握手、友情に満ちた微笑みがありました。それは、私の電子メール友達の松岡茂雄委員長が率いるホストとGSE委員会のメンバーでした。紹介と記念写 真のあと、暖かい陽ざしの中、私たちを大阪の都心へ運ぶために待機していたミニバスに連れて行かれました。運転手は白い手袋をはめ、制服を着ていました。途中見たのは、高速道路、橋、川、我々を取り囲みながら、遠くの山の青いシルエットの下の靄の中に消えて行く混み合った都市空間でした。40分経つと、ビジネスパークのスカイラインがハッキリしてきました。エレガントでモダンな高層建築があり、その中でKDDビルは水平なディスクがそびえ立っていました。異常な配置のアンテナなので、「まさか、飾りじゃないだろうね」と思いました。都会の真ん中で、大阪城を通 りすぎました。(この城と周囲の公園は本で見ていたので、直ちに分かりました)そして二日間の基地となるホテルニューオータニに着きました。このホテルには、彼らのウエブサイトが約束していた全てのものと、期待する以上の微笑んでいるスタッフがいました。それは五つ星のホテルに勝るとも劣りません。

我々には5室が与えられ、24時間休息する前に、GSE委員会は昼食とオリエンテーションのミーティングを整えてくれました。最初の2週間のホストの名前や、行動や、行く先、ドレスコードを書いた詳細な日程のコピーが配布され、松岡さんが説明してくれました。彼は説明を、ドゥーズ&ドンツ(するべきこと、してはいけないこと)で締めくくりました―「恋愛には関わらないこと。問題が多く発生するから」―多くのGSE団員におなじみの、良いアドバイスでした。

会話を交わすうちに、信じがたい偶然に気付き、訪問中何回もその話に触れました。GSE委員のジョージ中島さんは、1960年代にアメリカで暮らしたことがあり、家族のことを我々が話ししている間に、一つの名前が浮かび上がりました。彼の当時のドクターで友人は、他ならぬ 私の継父だったことが明らかになったのです。ジョージが日本に帰ってから音信は絶えていました。そこで私は喜んで彼らの友情が蘇る導管―もちろん電子メールで―の役を務めました。

8時間先行する新しい時刻に慣れることは、断片的な休息という結果をもたらします。その間の1〜2時間を利用してホテル近くの大阪城公園を探検しました。それは驚くほど広いグリーンのエリアで、道、小径、草、木、集中的な堀があります。堀は大阪城の最後の防御線として用いられました。どんな大きな都市公園にもリラックスする家族や友人仲間や観光客がいて、あちらこちらのランドマークの前で写 真を撮っています。しかし、木の間に青いプラスチックのシートでできたテントやシェルターを見つけました。それは2660地区チームのプレゼンテーションで見たものでした。これらは、ホームレスの人のホームで、彼らがそこにいることは、我々が発見した大阪の社会の寛容性の最初の例でした。これらのハンデキャップを負った人たちは、脅威とみなされてず、麻薬や犯罪を自動的に連想されてもいません。大阪は、確かにこれらの問題から免れていませんが、低い犯罪率と路上生活者の礼儀正しさは、この混み合ったメガロポリスを著しく住み良い場所にしています。だから、ホームレスの人たちも、市当局に、一見邪魔されずに滞在しています。

この隔離された休息は、2660地区の今年のGSEチームと、昨年カナダへ行ったチームの微笑みに満ちたグループがホテルのロビーにインフォーマルに集まり、連れ出されて終わりました。リーダーは中村健さんでした。彼はもし英国で生まれていたら、愛すべきエキセントリックな老英国人とみなされたでしょう。もう慣れっこになった率直さで、彼は私の手を握り、私の腹を叩いて言いました。「ミスター・ハワード。肥えたね。」

「有り難う、ケン」

休日で土曜日の午後の、でんでんタウンと心斎橋の混雑したストリートは、「リラックス・ツアー」にしては面 白い選択で、皮肉のコンセプトが東洋でも十分生きている証拠でもあります。地下鉄に乗り、それから徒歩で我々はこのポピュラーなショッピングエリアを夕方早くまで探検しました。ヘレンI(我々のショッピングチャンピオン)の眼は、スペシャルティ・ショップに入ると疲れの影を払拭し、頭の中でお土産のノートを書きとめるのでした。

道頓堀は、有名なレストランエリアで、カラフルな明るく照明されたサインがあり、2660地区チームの播本裕典、庄司富久代が案内してくれました。それに英国で会った佐久間大輔、本多智佳が加わりました。いろんな銘柄の日本のビールを飲んだ後、箸で食事に取り組みました。我々の技術(準備段階で本国で練習しました)は、ホストの喝采を浴びましたが、「さあ、左手でやってみよう」という箸のチャレンジがGSE委員会のメンバー、タカシ(キャプテン)加藤の提唱で始まり、その友達のケイコやシューの激励もあって、トライしました。笑いと楽しさが一層増しました。大阪紹介は、もちろん酒と地下鉄への千鳥足で終わりました。誰もがリラックスし、素晴らしい宵でした。

プログラム

5月7日、日曜日の歓迎晩餐会で、我々は最初のプレゼンテーションを行い、ホストに我々の地区のことについて語り、またホストから教えてもらうことになっていました。我々のオーディエンスは、年輩のロータリアン、これから4週間のホスト家庭、それからゲストでした。多くの人、特に年輩の会員は英語を話さないことに気づいて心配になりました。約束通 り通訳が用意されましたが、それが330分のプレゼンテーションをどれだけ長引かせるかを認識していませんでした。50分経過して、変更が必要なことがハッキリしました。我々の日本語も理解不可能であることも分かりました。後に、一日、車を運転してくれた「マックス高田」が説明してくれました。外国人に日本語の話し言葉を教えた彼の経験では、「アメリカ人はイントネーションが強く、一番難儀するが英国人はそれほどでもない。しかし、日本語の発音は非常にフラットで、我々が正しい単語を使っても、日本人の耳にはおそらく十分うまく聞こえない。」松岡茂雄は、あまり一生懸命に日本語をしゃべろうとするなと言ってわれわれを気落ちさせていましたが、彼は正しかったのです。有り難いことに彼は、それからのオーディエンスのために我々のスピーチを書き直し、翻訳を用意し、日本語のスピーチは緊張感をほぐすための2、3語に留めてくれました。

歓迎会のゲストが我々のプレゼンテーションのエンタテイメントの部分をスピーチよりも楽しんでくれたことを知って、いくらか慰められました。若いゲストは、立派な英語を話す人も多く、我々の日本語会話を聞き、その努力を褒めたり、訂正したりしてくれました。にもかかわらず、出発前のレッスンが値打ちのあったことは、ホテルや商店やその他の場所で人が賞賛してくれたり、驚いたりしたことで証明されました。

晩餐会の後、別々のホストが次の6日間を過ごすことになる彼らの家庭へ我々を連れて行ってくれました。私の場合、宇野ビルディングに着くのに数分しかかかりませんでした。それは5階建てのオフィスで、宇野夫婦のアパートが上部の2階を占めています。部屋はヨーロッパの標準からすると小さいのですが、調査によると大阪の不動産は、私が慣れているものより数倍高いのです。私は最上階に、西洋スタイルのベッドと家具のある一部屋を与えられました。家族は私を大歓迎し、宇野夫婦はここに2人だけで住んでいるのですが、若い家族がやってきて、滞在中の通 訳を務めてくれました。

最初の朝、私の部屋は高架の高速道路を見下ろしているのを見つけました。そのことは、交通 の騒音で気が付いていましたが。このビルは都市の真ん中で大川の近くにあり、地下鉄や電車の駅に近く、その週の行き先の中には歩いて行ける距離の所もありました。宇野夫人はいつも微笑んで、英語を少ししゃべり、料理が好きで、私の滞在中おいしい日本料理と西洋料理をバラエティ豊かに用意してくれました。

文化的訪問と観光があわせて7回、プレゼンテーションが4回、職業研修が2回、2660地区の柏木ガバナーとのミーティング、大阪市役所と大阪市長への公式訪問、地区大会への出席、GSE団員による歓迎会兼同窓会があり、自由時間にはホストとのディナー、ロータリークラブの歓迎会、カラオケの慣例的な屈辱を経験しました。この週は、ローラーコースターのようにGSEがフルスイングしました。バラエティに富んだプログラムが、新しい体験で我々の感覚を直撃しました。あまりにも数が多いので、詳細に触れられませんが、チームはこの過酷なペースによく対応し、すべての瞬間を楽しみました。ハイライトを2、3述べます。

WTCコスモタワーへの訪問。このビルは50階立て、最上階に展望室があり、大阪港から市内を見下ろせ、方向感覚が得られました。水族館の海遊館は、多岐にわたるコレクションと想像力に富む内部レイアウト、カラフルで現代的な建築で印象的でした。その近くの大観覧車から、私の最初の職業研修で訪問するユニバーサル・スタジオの建設サイトを見下ろしました。この日は私の誕生日で、チームやホストはそのことに気付き、私は「カラオケスター」というバースデーカードをもらいました。それは、一つの警告で、私にそのタイトルを得よ、と言うものでした。バースデーランチを食べ、その晩、宇野ファミリーは、生まれて始めての「誕生日フィッシュ」をご馳走してくれました。

我々の改訂されたプレゼンテーションは、大阪鶴見ロータリークラブで大好評でした。これからの例会での自信がつきました。改装された大阪城への訪問は印象的で、近くの神社での目を奪われる伝統的日本舞踊に続いて、初めてのお茶会がありました。戸外の季節外れの暑さから救われ、緑茶の準備と飲用の込み入った作法が我々に説明されました。

大阪市役所では、市長の磯村さんを表敬訪問する前に、柏木ガバナーに会い、ギフトを交換しました。磯村市長には、大阪城公園にはホームレスの人たちが建てたシェルターが沢山あるが、2008年のオリンピックに大阪が立候補している観点から、このことがオリンピック委員会で問題にならないか、と質問しました。彼は率直に答え、大阪の寛容な社会性は有名で、他の日本の都市から大阪へホームレスの人たちが移住してくることを認めました。ホームレスの数が増えることは彼にとって、悩みでした。

日本の二つの主な宗教の一つ、神道(他の一つは仏教)に、大阪天満宮への楽しい訪問で、初めて触れました。神官であり、天満橋ロータリークラブの会員である寺井さんが境内を案内してくれました。この場所は、都会のセンターに近いのに、静寂な雰囲気に満ちていました。神社に入る前に、泉の水で手の清め方を示されました。ここでは結婚式が行われ、我々は式場に入ることを許されました。神官の目前の結婚の席に座りました。結婚して帰国する最初のGSEチームになるのではないかと疑いました。参拝も見ました。正座もしました。(正座は、跪いて踵の上に座り、つま先を背後に向けます)私の西洋の脚はこの姿勢を採用するようにできていません。15分後に立ち上がろうとして、うめき、ホストを大変面 白がらせました。

天満橋ロータリークラブでは昼食に続いて、プレゼンテーションをしました。今回もうまく行き、チームはそれから分かれて職業研修に出掛けました。私の場合はユニバーサル・スタジオのオフィスでした。その夕方、天満橋ロータリークラブのメンバーが数人でレストランに招待してくれました。素敵なスキヤキを食べ、そのあと社会教育として「カクテルバー」へ出掛けました。

私の最初のホストが宇野紙業の社長だったことは偶然ではありませんでした。というのは、3月に研修希望リストを提出したときに、伝統的な和紙つくりを見たいと依頼したからです。宇野さんは、彼の工場は機械で紙をつくっているのですが、ローテクで労働集約的な「黒谷和紙」つくりを見に大阪北部の山中へ連れて行ってくれました。そこでは、和紙が伝統的なやりかたでハンドメイドされています。桑の一種の「楮」(こうぞ)、紙製造に用いられる最古の植物の一つ、から抽出したパルプを何層も重ねて大きなシートの和紙が製造されていました。長い繊維が美しいテキスチャーと半透明さだけでなく、驚くほどの強さを与えています。森林環境にある小さな作業場のインフォーマティブなツアーを私は楽しみ、きれいな山の空気で肺をリフレッシュし、喜んで私の財布の中の紙と「黒谷和紙」とを交換しました。

2660地区の大会は、大阪で第1週の終わりに開かれました。84人のロータリー財団委員会委員長の集まりで、プレゼンテーションを要請されました。時間の都合でスピーチは20分に制限しました。

土曜日ごとに、一晩宿泊するため、ホテルニューオータニに戻りました。これは、我々に小さなスペースと、自分たちの仲間でリラックスする機会を与えました。みんなはその週の経験を比較でき、私はみんながうまくやっているかどうか、チェックできました。これは大変に有り難く、同じ様なアレンジを、将来のGSEオルガナイザーに強く推奨いたします。

GSE委員会が行ったもう一つの革新は「歓迎同窓会」でした。過去の、そして現在のチームメンバーが招待されました。誰もが何か、共通 のものを持っているので、新しい友をつくり、リラックスした雰囲気を醸すのは容易でした。それから、私がずっと怖れていた夕べがきました。カラオケです!GSE委員の野村さん、キャプテン加藤とその友が我々を「大阪カラオケバー」へ連れて行きました。そこでは、我々だけの個室がり、英国のようなパブリックバーではありませんでした。通 常なら私は自分の歌声で人に迷惑をかけないのですが、今回は逃れられませんでした。日本では、時間つぶしとして人気のあるカラオケが衰退気味と知り、確かに私の演奏がその終焉を急がせたと思いますが、写 真を見ると、みんな、特にアンドルーが大いに楽しんだことが分かります。

第1週の印象

第1週のペースは、毎日日記をつけることの重要性を私に認識させました。ここにアンダーラインを引いておきます。というのは、この報告を書くにあたって、日記、写 真、何百枚もの名刺(ビジネスカード)を絶えず参照したからです。名刺は新しい知己に渡される習慣があります。毎週末に私はプログラムの拘束から自分を解き放ち、新しい観点から自分のノートを見返しました。

我々は、到着直後から特別なゲストとして扱われ、丁重さとホスピタリティを与えられました。このように特権的なポジションから社会を見ることは、客観的な意見を形成を困難にします。また、この複雑な社会の表面 を引っ掻いたぐらいだとは思いますが、そうは言いながら、以下の観察記を提出します。

日本のロータリーとロータリアンの持つ地位は、我々にドアばかりでなく蝶番まで開いてくれました。ビジネス社会や公共サービスの最高層に属する人物が大阪的な生活に関する洞察を我々に与えてくれました。これは他の場合のビジターが手にできないものです。誰もがオープンに、ホスピタリティに満ち、喜びを与えてくれました。プレゼンテーションや会話での我々の努力を純粋に評価してくれました。それは我々のオープンマインドなアプローチのせいもあると思いますが。

女性は、社会の上層部のいくらかの地位を占めていますが、男性上位はあきらかです。特に家庭では。例えば、どこかへ行くとき家長は大股で歩き、意図的に女性や(時にはゲストも)置き去りにします。ホストの妻や娘が私をショッピングに連れだした時、私は先頭に立って歩くことを期待されました。どこへ行くかも知らないのに!いつもしているようにご婦人のためにドアを持つと、果 てしなく進行を遅らせます。私が先に通ることが予期されているからです。この習慣は、もっとも変更の困難なもので、妻や娘は喜んでくれましたが、主人の方はそうでもありませんでした。

大阪人は、熱意を持って食べ、飲みます!それもそのはず、大阪の料理は輝くばかりにバラエティがあり、見た目も良く、新鮮です。日本を訪問する時は、英国的な料理の偏見は置いてこなければなりません。生の魚を食べる覚悟はしていましたが、そのフレーバーの繊細さは予期以上でした。ある時、エマの烏賊が、お皿の上で動いたのです。こんなに新鮮な魚を食べろと彼女に言うのは酷でした。最初の週に試した食べ物は我々のプログラムほど多岐にわたり、フレーバーの組み合わせは母国では聞いたこともないものでした。例えば、カラメルをまぶしたアンチョビ!(訳注:いかなごの釘煮のことか)量 も圧倒的でした。毎食、これで終わりと思うと、もう一皿が前に置かれるのでした。いつもより多く食べたのに一ヶ月で3ポンド、体重が減りました。米、野菜、魚、肉をこの順番で食べる食事は、みんなをスリムにします。デザートも、西洋で共通 な砂糖の甘さがありません。その結果として肥満の日本人を見ることは少なく、平均寿命も3年長くなっています。

西洋は丁重さと他人への思いやりについて日本から多くを学ぶことができます。この結論には、我々への典型的なもてなしからばかりでなく、日本人相互の振る舞いを見て達したものです。礼儀正しさと謙虚さにあふれていて、直接対決は見ませんでした。攻撃的な唯一の事例は、一方的なもので、オートバイ運転者と交通 警官の間のやりとりでした。世界中どこでも同じ職業はあるものです。

二度目の日曜日の朝、エマがホテルの部屋から電話をかけてきました。「いま、サヨナラパーティ用の歌を選んでるの。すぐ来て頂戴」前夜のカラオケが、歌心を引き出したに違いありません。我々は二つの歌を練習することに決定しました。あとの三週間でその時間があればですが。その日、正午にチェックアウトして3時間ほどホテル周辺の大阪ビジネスパークを探検し、なつかしいレストランチェーンをいくつか発見しました。大阪料理を過剰なまでに一週間楽しんだ後に、フレンチフライ付きの「定食」にありつきました。

予想した通り、第2週のホストが時間ピッタリにホテルで我々に会い、チームはまた別 々に分かれました。ロータリアン合田真佐彦さんの妻のヨシコさん、娘のミナコさんが、市の中心から郊外を抜けて北東へ30分の寝屋川市にある自宅までドライブしてくれました。大阪はいくつかの都市に分かれていて、場所の名前の後に「市」がつきます。一つの市から次の市に入っても、ビジターには区別 はつきません。

合田さんの住まいは、英国の中級の家のサイズに匹敵し、部屋の広い2階建てで庭と車寄せがついています。我々が到着した時、合田さんは小さな芝生に水をやっていました。「庭は、彼の喜びであり、誇りです」とミナコさんは言いました。注意深く整え、刈り込んだ木や茂みが狭い道路や小径でセパレートされた隣家を隠していました。合田家のインテリアは、日本の伝統と西洋スタイルの快適さのミックスでした。我々は美しい畳の部屋で座布団に座り、お茶を飲みました。この部屋は、多くの家の贅沢な特徴です。畳のマットは滑らかな風合いのデリケートかつタフな草の編みものです。これらの部屋のサイズは床を覆うに必要なマットの枚数で表現されます。私は、家や料理屋に入るとき靴を脱いでスリッパに履き替えるのに慣れましたが、畳の部屋ではホストが裸足か靴下を履いたママなのに気づきました。私は、一階にあるこの部屋が庭に面 し、私の滞在に供されたことを嬉しく思いました。睡眠は床に敷いた布団でしました。

典型的な配慮として、私の新しいホストは宇野一家に電話して、私の好物が「天ぷら」であることを聞き出しました。天ぷらは、ねり粉をつけて揚げたエビや野菜です。私は、この歓迎ディナーを合田家三世代と楽しみました。

第2週

日程表に掲載されていた、京都の葵まつりは、5月15日でした。3つのロータリークラブ、八尾中央、寝屋川東、枚方くずはを代表するホストが、下賀茂神社への行列を見るために前列の席を用意してくれました。行列は500人が参加し、馬、牛、御所車という大きな荷車が参加しました。御所車は小さい牡牛が引く、天皇や公家を運ぶために伝統的に用いられました。飾りや伝統衣裳は、この祭りを最もカラフルなイベントにしていました。曇った空もこの輝かしさを損なうことはありませんでした。8世紀の平八茶屋で昼食を取っていると、雨が、最近の暑さから空気をリフレッシュしてくれ、歓迎しました。

その晩、ホストの合田さんは、もうひとつの歓迎パーティへ連れて行ってくれました。それは彼のロータリークラブ、寝屋川RCが例会を開くレストランでした。もう、おなじみになった量 のビールとお酒つきの刺身ディナーでした。スコットランドの南端に接する私の地区の地理的な位 置は、大阪訪問中、しばしば話題の中心になり、いつも「あなたはセント・アンドリュースでゴルフをしますか?」という質問を受けました。日本のロータリアンは、みんながセント・アンドリュースを知っているようで、私はスコットランドにそんなに近く住んでいながら、ゴルフをしないことを認めざるを得ず、悪いことをしました。それにも拘わらず、寝屋川ロータリークラブの会長の前田スミオ氏はハーモニカを持ち出して、夕食後、彼の愛するスコットランド民謡のリサイタルで私に敬意を表してくれました。

この交換を通じて我々のホストは、大阪を良く体験させるために大きな努力を払ってくれました。しかし、ちょっと行き過ぎに感じたのは、彼らが5月16日朝4時10分に地震まで用意してくれたことです。目を覚ますと、合田家が揺れていました。激しくはなく2、3秒続いただけですが、以前に経験したことのない現象をデモするには十分でした。他のチームメンバーとノートを交換して、6時00分にも2回目の揺れがあったことを知りました。どちらの揺れも損害はありませんでした。

職業研修は、個別にもまたグループでも行われました。サンヨー電気の中央研究所へ、枚方ロータリークラブで昼食とプレゼンテーションをする前に行きました。このクラブは歓迎のバナーを用意し、正式の訪問記念写 真まで撮ってくれました。午後の訪問先は松下電器の技術資料館でした。過去、現在、未来のテクノロジーが印象的に示された一日が、これで終わりました。

我々のプログラムには多くの仏教、神道の神社が含まれていました。歴史的なセンターの奈良と京都は、我々の訪問の文化的なハイライトでした。どちらのセンターへもロータリアンと通 訳が同行する日帰り旅行がありました。奈良へゆく電車の中では、通訳、余田佳子さん、鶴園ミエさんから、方言である大阪弁のいくつかの単語を学んで時間を過ごしました。我々の地方の方言である「ジョーディー」もお返しに教えてあげました。

奈良は、日本文明のゆりかごと、よく言われます。意味ある首都が最初に開かれた場所です。奈良の東大寺へは、鹿の公園の長い舗装道路を通 って行きます。ここは人気のある観光中心で、他の多くの場所と同様に、制服を着た学校生徒の集団を見ました。彼らが本を持って近づき、5才から教えられている英語の練習をしてくることに我々は慣れ、喜んで答えて励ましました。我々もこの機会を利用して日本語を使いました。お寺の境内には壮麗な「大仏殿」がありました。これは大仏のホールで、世界最大の木造建築と言われています。その中には、大きな、15メートルの高さの仏像があります。青銅製で西暦749年に完成しました。多くの歴史的な遺物、構造物と同様、大仏は何世紀にも亘って修復されています。両手は取り替えられ、頭部は1692年に修復されました。畏敬をいだかされるサイトです。

もう一つの仏教サイト、薬師寺複合体は絶えず修復され、多くの建物が昔の状態に見えます。管理者はオリジナルな伽藍配置を示した、今に残る平安時代の薬師寺縁起を参考にオリジナルデザインを忠実に守っています。これらの建物には多くの国宝があり、最も顕著な呼び物は双子の塔です。西塔は1981年に再建され、東塔は1300年間生き延びてきました。この最も楽しい日の終わりには、もう慣れっこになった交通 渋滞で帰りが遅れました。それでも微笑んでいるホストが所定の場所で私に会い、電車で家に帰りました。その晩は約束がなく、家庭料理を楽しみ、休息し、UKへ初めて電子メールを送る機会となりました。

私の2回目の職業研修日は東大阪中央RCがホストでGSE委員長は出原マサヒデさんでした。この日はパッケージ製造会社と伝統的な庭園の中にある、古い家柄の米商人の家でした。この日の運転手兼通 訳はマックス高田でかれは時間通りに現れ、英語を上手に話しました。(彼とは、後で西洋人にとっての日本語の発音の難しさの問題を議論しました)

ザ・パックの東大阪本部には博物館があり、世界でも最も著名な会社の多くのロゴや広告を刷り込んだ上質の大きな紙製キャリングバッグが展示されていました。ゼネラルマネージャー代理の西岡シロー氏がホストで、2フロアにわたる商品ディスプレーを熱心に案内してくれました。私の研究の重要な要素はグラフィックデザインなので、できる限りの日本のデザインを見ることに関心がありました。しかし、西岡さんは、私が彼にとって重要な西洋のクライアントのブランドを見過ごして、日本伝統のスタイルと思える酒のパッケージの方を好んだのでがっかりしたようでした。私が酒のパーッケージやラベルを面 白く思いヨーロッパやアメリカでなじみの販促イメージよりも好んだのは驚くべきことではありません。大阪は西洋のライフスタイルとコンシューマリズムに偏り、西洋のマーケティングが浸透し、おそらく私はそれに失望を感じていたからです。このように豊かな芸術遺産を持つ国で現代日本の創造性を発見する代わりに、特に若い世代は自分たち自身のカルチャーに背を向けているように見えました。

鴻池会所は裕福な大阪の商人、鴻池善右衛門によって300年前に創られ、水田経営と見張りのセンターとして建設されました。このサイトは、業務が行われたメインビルディング、多くの倉庫、火の見櫓からなっています。その東には、美しい庭園があり、庭の要素として遠方の風景を借景とする伝統的なフィロソフィで彩 られていました。

その庭は今では水田ではなく、近代的な建物に囲まれ、部分的に大きな木によって隠されているだけです。しかし、それは静寂のオアシスであり続けています。この場所への訪問は、展示デザイナーである私の、日本の庭園デザインを見たいという要請に応えてアレンジされました。私は、私のデザインに、木や、茂みや、木材、水と石のような自然の素材を使うことを試み、日本のスタイルを長きに亘って、賛嘆してきました。

八尾東ロータリークラブでプレゼンテーションをする日、私は合田さんの家から2人の英語を話さないロータリアンの出迎えを受け、ドライブしてもらいました。八尾市に近づくと、私は自分の最上の日本語で「近くに銀行はありますか?」と訊ねました。両人ともうなずき、金曜日なので私が銀行へ行って、トラベラーズチェックを現金化する必要のあることを理解したように思えました。西武百貨店に近づくと、私のエスコートは、左の建物を指さし、「銀行はそこにあります」と言って、そのまま運転を続けました。ロータリーのミーティングの昼食の際、チームメンバーのヘレンIも銀行を見つけたがっていて、ホストにそのポイントを強く言う必要がありました。我々の要請はかなえられましたが、銀行へ行くのが後になったため、お茶の先生であるロータリー会員の真野さんの家に行く午後の約束に遅れました。このようなことは2回あり、これはその初回でした。これはそれ以外は何らの瑕疵のないプログラムに対する私の唯一の批判です。イベントのスケジュールが密着していて、場所から場所への交通 の時間しか間がありません。個人的なショッピングや、銀行や郵便局に行く機会が限られていました。

第2週のホストと過ごす最後の晩はファミリーディナーで、その後贈り物を交換しあいました。これまでに、チーム全員は贈り物の習慣に慣れ始めていましたが、いつもホストの気前のよさに当惑しました。その宵の残りをのんびり過ごた私は、「オフデューティ」になる週末を待ち望みました。翌朝、合田さんと写 真を撮り、お別れした後、ニューオータニへドライブしてもらい、チーム、キャプテン加藤とその友人に会いました。彼らはその午後のレジャーとして、海側から大阪神戸間の沿岸を見るためにクルーザーを用意していました。

1995年に神戸市は、世界中のニュース放送で取り上げられた大規模地震の震源地でした。今ではすでに、再建計画は殆ど完了しています。現在進行中の仕事は建設業者による植樹と道路脇の種まきに見られるだけです。どこで災害が発生しても、人が地震帯に住み続けるのは何故かと、問うことはやさしい。しかし、ここの住民には、地震は人生の一つの現実とみなされ、誰もがビジネス生活を継続しています。

この航海は、アンドルーと2人のヘレンにとっては新しい経験でしたが、これも松岡さんにエマと私がセーリングの経験があると言及していたからでした。それ以上は何も言っていなかったのですが、ここでもまた、2660地区のホスピタリティが実行に移され、我々はロータリーの新しい友人と素晴らしい午後を楽しみました。

2週間経過後の印象

郊外に一週間暮らして、特に道路が狭く、舗道が希な場所での大阪の交通の印象が良くなりました。オートバイ、自転車、歩行者は自分勝手に動いているように見えます。横から入ったり出たり、お互いをセンチの差で避け合って、自動車はみんなに道を譲っています。大阪のラッシュアワーは、煮えたぎっていますが、押し合いとは言えません。攻撃的でなく、カッとなることもなく、交通 量の多さにもかかわらず、あるいはそれ故にというべきか、誰もが当然のようにうまくやっています。車のクラクションさえ丁重に聞こえます。しかし、大阪人が規則を無視する例をもう一つ見てたのもしく思いました。誰もが赤信号を先取りします。

東洋と西洋の社会的な動作の差について、一部は知識があり、一部はありませんでしたが、我々を驚かせ、面 白がらせました。我々を間違わせたのはいつもシンプルなことでした。たとえば、手を開く、閉じる、腕を伸ばし手のひらを下向ける、これは行って良いというジェスチャーです。日本ではこれは、西洋で手のひらを上に向けることと同様に、人を手招きするために用いられます。準備中、人前で鼻をかんではいけないと忠告をうけました。ですから、街角や地下鉄の入口で箱一杯のティッシュペーパーが配られているのを見て驚きました。鼻を大きくしょっちゅうかんでもOKでした。食べ物をすすることもOK。それは感謝のサインなのです。一方、体から出る他のノイズは絶対にタブーです。大阪は西洋の文化の吸収に熱心ですが、ウーピークッションはこちらでは決して人気がでないでしょう。

2週間、大阪で過ごしてみて、西洋の広告とそれがもたらす文化の氾濫への懸念が大きくなりました。私は、GSEによる恩恵を享受しながら、一方で1週間に1回、アメリカのファストフードを食べ、同時に文化の混合した保留地に避難しました。私は、西洋に対する日本の輸出品のインパクトに鈍感な方ではありませんが、メディアのマーケティングによりプロモートされる西洋的な価値やライフスタイルを若い大阪人が崇拝している程には、西洋が日本文化を採用する欲望を持っているという証拠を見ていません。文化交流の目的を積極的に支持しながらも、私は、文化のアイデンティティを犠牲にして国際理解をはかることが論理の帰結になってよいのかと、疑問を抱き始めました。私の精神状態は混乱しましたが、第3週の職業研修が私の初期の認識を覆すことになります。

第3週のホスト家庭に加わる出発の前に、ジョージ中島とその仲間が、滞在半ばでのミーティングを開いてくれました。プログラムの残りの部分を議論するためでした。これはGSE委員会の、もう一つのヒットアイデアでした。というのは、最後の週は日程がフレキシブルで、我々にリクエストの機会が与えられたからです。我々はいくつかのアイデアを出し、アレンジは終わりましたが、第3週については、詳細日程が日本語だけで、英語はアウトラインだけだったのを見て不安になりました。到着した日にもらった1、2週の英文詳細日程のありがたさが増してきました。

第3週

高橋定八さんは、玄関に立って私を迎えてくれました。ほっそりした姿で、80才を超え、白髪、大きな眼鏡を掛け、ブルーとグレーの色のゆかたを着ていました。高橋さんは、ロータリーの大物で、彼の家のゲストになれたのは光栄でした。彼は池田ロータリーの創設メンバーであり、会長を務め、ロータリー歴は40年です。豊中市にある彼の家は大きな庭園の中にあり、似たような2つの家が隣接していて、拡大家族が住んでいました。家に入ると、私はスリッポンの靴(この旅行のために特別 に買ったものです)を脱ぎ、スリッパを履き、ピカピカに磨いた床の上でスリップしました。私は、落ち着きを取り戻して、この変わった入り方を丁寧なお辞儀に変えようと試みました。

ホストの家族が通訳して、優雅な家具のある畳の部屋でお茶を飲み、おしゃべりしました。トシコ(高橋夫人)は家の中を案内して、一階にある西洋風の家具があり、エアコン付きの快適な部屋へ連れていってくれました。夕食時に、週間のプログラムについて話し合い、スケジュールに合うように朝食の時間が決められました。

最初の2日間はユニフォームを着る必要がなく、温かい気候が続いていたので、我々みんなにとって救いとなりました。京都デーは電車を利用しました。それぞれのホームステイ先からまず大阪へ行き、JRに乗って、新しい京都駅に着きました。その未来的な建物は、日本で最も良く保存され、伝統文化のホームである周囲の建物と、あからさまな対照をなしていました。ホストの吹田江坂ロータリークラブと昼食を共にする前に、建物を探検する時間がありました。数階も登るエスカレーターに乗って、建物の屋上の展望プラットホームに行きました。その午後はバスツアーで、九つの広い通 りが東から西に走り、大通りと交差する京都のグリッドシステムを通って走りました。このタイプのレイアウトはアメリカと共通 ですが、大阪を見た後では驚きでした。

最初にバスが停まったのは、平安神宮でした。この建物は、この都市が開かれてから1100年を記念して、1895年に建てられたものです。それは最初の宮殿のレプリカです。柱は朱色、壁は白、グレーの瓦屋根で仕上げられ、オリジナルよりは小規模ですが、印象的であるのは同じです。その周りには美しい庭があり、全体で光りと空間を印象させました。

これとは対照的に、120メートルの長さのある、三十三間堂(名前の意味は柱と柱の間のスペースが33あるホールという意味です)の暗いインテリアは1000体の人間サイズの立像があり、一体の金泥仕上げの大きな観音座像がありました。28の神将が前列に並び、風神と雷神を表すさらにドラマチックなスタイルの像がサイドにあります。1164年に建てられたオリジナルの寺は火事で失われ、1266年に再建されてから現在まで4度修復されています。この建物とその所蔵物は国宝です。

京都デーは、都市を見下ろす山のなかにある清水寺への訪問で終わりました。険しい登りと建物が何層にもなった、この寺の位 置は、他の場所と異なり、木々の連なる斜面が対照的な背景を加えていました。我々が撮影した写 真は3週目に入る前に全体で500枚を超し、この日の遠出でエクストラのフィルムをまもなく仕入れなければなりませんでした。ここでもまた、学校生徒の多くのグループがいて、景色を楽しんでいました。この高い位 置にあるテラスの一つが自殺の名所であると聞いて動揺しました。このお寺からくねって曲がり下る道添いに、ありとあらゆる種類の、また高品質なギフトの店が並び、すでに重量 超過のスーツケースに押し込むお土産を見つける良いチャンスとなりました。

その次のグループ研修日は、「食道楽」に強調が置かれていました。私のホストはビスケット、チョコレートそしてキャラメルを製造する森永製菓の大阪工場が日程に含まれていると説明してくれました。素晴らしい昼食の後、白雪酒造を訪問、マネージャーの案内で日本酒の製造工程の説明がありました。豊中南ロータリークラブがこの日の担当で多くのロータリアンと通 訳が参加しました。チーズを輸入しているロータリアンのオフィス訪問で、この日は終わりました。柔らかいフランスのチーズは大変上質で、英国のスティルトンチーズも素晴らしいものでした。

京都の伝統工芸学校(TASK)へ行った私の職業研修日は、このプログラムで最も啓発され、最も楽しい経験の一つでした。この学校は、京都の西北、園部キャンパスのモダンで設備のよい建物にあります。園部は繁栄している町のように思えました。近代と伝統のスタイルがミックスした新しいコミュニティセンターの建物が印象的でした。

ディレクターの中西さんが、私と3人のロータリアンを案内して施設を見せてくれました。それは多くの点で、私が三次元デザインの資格を1975年に取った母校のニューキャッスル・ポリテクを思い出させました。学校には、分野、材料、手法に従ったスタジオやワークショップがありました。母校と違う重要なポイントは、ここの学生は3ヶ月経つと専門を決めることが要求されるのに対し、母校の4年制のコースでは、その期間ずっと広いベースのテーマで勉強することが推奨されていることです。TASKは熟練した、若い専門の職人を生みます。聞いた話では、卒業生の85%が伝統産業で職を得るとのことです。

授業中のクラスもいくつか見せてもらいました。学生が畳の上で脚を組み、列をつくって座り、手工具で仕事をしていることに驚きました。モダンな機械の使用は一見したところ見あたりませんでした。一つのスタジオでは仏像の木彫が教えられていました。学生達は伝統的な像の写 真を見て、作業をしていました。学生達にオリジナルデザインをつくることが奨励されるのかと訊ねました。答えはノーでした。別 のスタジオは一片の木材から能面を彫る学生達で一杯でした。指導はその道の著名な大家加藤教授でした。能面 が描写するキャラクターは、能―伝統的な劇場芸能―の中で決められた人物像です。ですから、ここでも伝統デザインを守ることが不可欠なのです。

漆器は日本の有名な産物です。このカレッジで私は、仕上げに漆を使った木製のお椀、皿、トレイ、箱造りを見学しました。漆は黒と赤、自然の形を生かした精巧なデザインで金粉が散らされていました。著名なアーチストが装飾の技術を教えていました。この分野では、学生達は自分自身の装飾デザインの創造を許されていると彼は説明してくれました。

6ホストを喜ばせるため、我々は竹細工に挑戦しました。直立する丸太の前で床に座り、濡れた竹の細片を与えられ、テーブルマットをどの様にして編み上げるかを教えてもらいました。成功の度合いはまちまちでした。この学校には、大きなセラミックスタジオがあり、何列ものろくろがあって、伝統的な茶碗やお椀が形づくられていました。絵付けのスタジオでは素焼き茶碗に伝統的な竹のパターンをどのように手で描くのかを教えてもらいました。私は自分の作品に日付とサインの記入を求められ、その茶碗は釉薬をかけて再び焼かれ、第4週のホストを通 じて私の手元に届けられました。

訪問の締めくくりに、ディレクターは証書と記念品をくれました。それは加藤先生の作品、小乙女(小さい顔と言う意味)の能面 の入った優雅な木製の箱でした。能面の曲面は、上から見れば笑い下から見れば眉をひそめているように見えます。これは私の宝物になりました。

日本文化が浸食されているという私の認識は、このようにしてチャレンジを受けました。私がいままで見たもの、人気の続くお茶会、伝統舞踊、畳の部屋、劇場、宗教、大阪の料理、そして伝統芸術を考慮すると、GSEの体験が与えられすぎた私の心に慰めとなるバランスが蘇りました。

池田ロータリークラブは、もはや会報を発行していません。少なくとも、印刷物としては。吉岡タカシさんが、ノートパソコンと携帯電話で、クラブのウエブサイトを見せてくれました。我々はきれいなレストランの床(もちろん畳の)に跪いて、それを見ました。ホストの高橋さんは、自分のクラブ主催のもう一つの歓迎会に連れて行ってくれました。またもや、おいしいスキヤキでした。クラブの会員は、全員がインターネットへのアクセスできるので、ページを定期的に更新することがたやすく、印刷と用紙を節約できるのです。例会の中で、我々はロータリーソングを歌いました。シンギングは、英国よりずっと多く例会に取り入れられています。クラブのバナーを交換したあとは、お酒のお銚子をギフトとしてプレゼントされました。

次の日は博物館訪問とロータリークラブでのプレゼンテーションがあり、ユニフォームを着て行きました。輝かしく晴れた日で、最高に暑く疲れました。ホストでさえ、異常な高温だとコメントしていました。ですから、その夜、高橋夫妻とエアコンの効いた都心のホテルで天ぷらを食べたのは、大変嬉しく思いました。そこでは、別 の新しい体験が待っていました。食事の中の呼び物が、浅い篭に入ってやってきました。生きていました。10センチほどの長さの蠢く魚が一匹ずつ取り出され、シェフがねり粉の中に浸し、熱い油の中に落とし入れました。彼は、死(もちろん魚の)は一瞬のうちだと言い、あたかも泳いでいるような優美に曲った魚を上げて見せました。これが、このスタイルの料理のエッセンスで、魚を丸ごと食べる客の賞賛を得ます。私も丸ごと食べましたが、魚の中程の部分は、かすかに苦い味がしました。

第3週は、大阪の万博会場跡にある素晴らしい国立民族学博物館訪問で終わりました。歴史的な工芸品のカラフルな展示が近代的なギャラリーを埋め、見事でした。摂津ロータリークラブでの昼食時のプレゼンテーションまで、少し間があり、思わぬ ことがおきました。アミューズメントパークでスリル満点のローラーコースターに乗ったのです。我々は、これが食事前だったことを喜びました。

午後は、ダイキン工業の巨大な淀川工場(413000平方メートル)を訪問し、簡単な説明を受けた後、ミニバスで工場内を見学しました。このプログラムの中で、ガイド兼通 訳の芳賀さんと、いろんなサイン類に日本語と時には混乱させられるし、不適当なアメリカ英語が併記されていることを話し合いました。芳賀さん、翻訳が不正確なことに同意し、「タイムアウト」誌の関西版はその最も傑作を毎週コラムで掲載していると述べました。ミニバスのダッシュボードのスイッチの横にあるラベルが目に付きました。「ジョイフルトーク(楽しいおしゃべり)」と書いてありました。ツアーガイドに尋ねると彼女は運転手と話をやりとりしたあと、そのスイッチはインターコムであり、運転者が乗客と会話するために使う、だから「ジョイフルトーク」だと言うことでした。天井のガラスパネルの横のスイッチには「ムーンルーフ」と書いてありましたが、その意味は質問しませんでした。

素晴らしいホスピタリティの一週間がまた過ぎて、贈り物を交換し、サヨナラを言う時がやってきました。家庭でのディナーがもう一度。鉄板焼きでした。写 真をまた撮影し、次の朝早く、フリーデーでみんなに会うために出発しました。

3週間経過後の印象

交換の中で、プログラム全体を評価するのに良い時期です。第3週の終わりまでに、チーム全員は疲れが目立ってきました。スケジュールの忙しさ、暑い気候が、彼らを参らせつつありました。週の半ばで日程の英語版をもらいましたが、詳細ではなく、ホストに頼らねばならないので、フラストレーションが残りました。ホスピタリティは相変わらず申し分なく、ホストは何事も苦にせずに、いつも熱心に楽しませようとしてくれました。このような理由から、4回目の土曜日に、約束がなく、小さなスペースと自由な一日を楽しめるのを特に嬉しく思いました。サヨナラパーティで歌う唄を練習したり、最近の体験を話し合いました。我々のスピリットは回復し、このプログラムは注意深く準備され、イベントや訪問のバランスが良いと意見が一致しました。この件でGSE委員会におめでとうと申し上げます。

チームリーダーとして、誰も病気にならなかったことを感謝します。時には胃が痛んだり、マイナーな負傷が一回ありましたが、迅速かつ適切な処置をしていただきました。チームのモラルは依然として高く、誰からも、不機嫌な言葉を聞いたことはありませんでした。これらのことから、私の仕事は楽で、残る週を待ち望みました。

第4週

最後のホームステイは、大阪市の南にある、ホテルから車で30分の井上紀人さんとヒサエさんのお家でした。再び違った型の家でした。モダンでコンクリート建築です。郊外にあり、狭い通 りを隔てて隣と接しています。家の中は、フロアがいくつかの違ったレベルにあり、一階は明るくオープンな建築プランで、畳の部屋はありません。ヒサエさんは、挨拶のあと、お茶を出し、板チョコをくれました。しばらく食べていなかったので、この家庭が好きになる予感がしました。私の部屋は家の最上階にあり、近所の家の屋根を見下ろしていました。

18階建ての大阪市大付属病院が、この週最初の訪問先でした。ディレクターで教授のオガタサチオ医学博士とそのスタッフが、時間を割いて、印象的でモダンな施設のツアーをさせてくれました。この建物は1992年に完成し最新のテクノロジーを備え、進んだ医療を行っています。公的なまた私的な医療がここでは受けられます。

大阪住之江ロータリークラブの昼食時のゲストとして、フルにプレゼンテーションをする十分な時間とスペースがありました。我々は、いろんな状況に合うように、台本の長さを自由に調節する術に精通 してきたので、このツアーの進行とともに、プレゼンテーションは改善され、自信がついてきました。昼食後、スケジュールにない神社訪問とお茶会を、突如提案してきました。いままでお茶会は3回経験したので遠慮したい、旅も終わりに近づいたのでエアコンの効いたデパートへ行けたら嬉しいのだがと説明しました。ホストは慈悲深く同意してくれました。

井上ヒサヨさんはつづく2、3日ずっと集合場所へ地下鉄で一緒に付いて行ってくれました。難波のサウスタワーホテルで、大阪南ロータリークラブのメンバーとインフォーマルなミーティングでおしゃべりをしたのち、最上階へ行って市内を見下ろしました。いままでで最高に見通 しがよく、多くの場所が認識できました。最後から2番目のプレゼンテーションを済ませ、心斎橋を再訪しました。

5月31日、水曜日は特別な日でした。英国を出発する前から、日程の中に新幹線を利用した広島への日帰り旅行が含まれていることに気づいていました。この日は雨でしたが、不都合と思うよりは、リフレッシュされました。この日のホストはジョージ中島がリーダーで、新大阪駅で落ち合い、のぞみ3号に乗り、(もちろん時刻表通 りに)広島へ出発しました。列車は清潔で、快適で、静かで、そして早かった!到着(もちろん時刻表通 り)後、有名なレストラン通りへ行きました。それは建物の数階を占め、小さなオフィス集合体のように見えました。ランチは、またもや特別 のもの、広島のお好み焼き、でした。鉄板の上で調理され、客はその周辺の腰掛けに座ります。野菜が入り、香りのあるソースをかけた、高価ではない西洋スタイルの料理です。一人につき一枚のパンケーキ状の成分が第一層として焼かれ、その上に第二層が載せられ、ひっくり返して焼かれます。その間、第三層が上に載り、そのようにして数層が重なります。その結果 生まれたものは、思い出せないほどいろんな物が入った巨大な食事です。ビールを飲みながらおいしく食べました。

ランチの間に、このレストランへ沢山の学校生徒の集団が入ってきました。思った通 り、本を持った子供達に囲まれました。しかし、この場合はいままでの出会いと異なっていました。子供達はそれぞれ一枚の白いカードを持ち、その上半分には彼らが英語で書いた平和のメッセージがありました。彼らは我々にその下半分に、我々自身のメッセージを書き込むよう頼みました。それからカードは半分にカットされて、お互いが相手の平和メッセージを持ち合いました。広島の写 真と一緒にして私の持っているカードにはこう書いてあります。

「私は、原子戦争と原子兵器について学びました。世界に平和を。ヒロキ ナカウチ」

このことを心に刻んで、広島平和記念資料館へ出掛けました。

私のチームは、私自身を含めて、第二次世界大戦終了後に生まれています。広島での出来事とこの場所の重要性についての知識は乏しく、我々がどのように反応するか誰にも分かりませんでした。モダンな資料館の建物は変哲のない灰色のコンクリート構造で、内部で体験するものへの心準備を与えるものではありません。1945年8月6日、午前8時15分の広島への原爆投下とその結果 発生した災害の話が大小の模型、写真、フィルムで叙述され、歴史的な遺品とインタラクティブな展示があります。その結果 、この出来事の描写に成功し、効果的な教育と情報提供が行われ、この、感情を刺激するテーマのデリケートな扱いを示しています。テープ録音されたアナウンスさえ、感情抜きで威厳に満ち、ショックを与えるような技巧に逃避せず、説教や告発や宣伝がなく、ただ、怖ろしい事実だけを伝えています。我々の反応はこうでした。確かに圧倒されました。悲しくもなりました。しかし、落ち込みはしませんでした。この展示は成功しています。そう思うのは、この公園の所在地とあいまって、展示の目的がまず第一に、そして疑いもなく、世界平和の推進にあるとの長く続く印象を、私自身の心に確認できたからです。

平和公園を、上空500フィートで原爆が爆発した爆心にある原爆ドーム(原爆で完全には瓦解しなかったコンクリートと煉瓦の建物の保存遺跡)の方へ歩いて行きながら、私はこんな結論に達しました。このメモリアルは原爆サイトの周囲に成長した新しい広島市にふさわしい記憶保存だと。

我々のプログラムを準備するにあたって、広島行きを含めるか否かの議論がGSE委員会であったと聞いて驚きました。次年度のGSE委員長の野村浩司さんとその委員会のみなさんに向かって私は声高く言います。「イエス、これは継続するべきです。この経験はGSEの目的に全て合致し、私のチームや今後やって来るチームが、(この経験を)未来の世代と分かち合うべきだと私は信じます。」

プログラムの歩みは、最後の週は、かなりリラックスしたものでした。大阪御堂筋ロータリークラブの例会でさえ、カジュアルな服装で、プレゼンテーションの代わりに、2,3語挨拶するだけでした。その日の午後は大阪湾のクルーズに引き続いて、サヨナラパーティが西宮ヨットクラブで開かれました。新しい友人が、こんなにも多く、サヨナラを言いにきてくれて嬉しく思いました。このイベントには、多くのスピーチと我々自身及びホストが用意した「エンタテイメント」が含まれていました。会話の上で、私のチームは期待通 りの成功を納め、ホスト達は大満足だと聞いていました。しかし、予期しないことに、松岡さんは、我々の成功を認めると同時に大阪市長に会ったことを記念した証明書を個人個人にくれて表彰してくれました。素晴らしいパーティは、多くのグループ写 真と涙にあふれたお別れで終わりました。
ヨットに乗ったハワード団長
IYFRの好意による大阪湾クルーズ

2660地区での最終日は、我々にとっての大きなチャレンジでした。この日、我々は日本で二番目に古く、権威ある大阪ロータリークラブの例会のゲストでした。おなじみの国歌斉唱(告白しますが、過去一年間で歌ったよりも、この4週間で多い回数を歌いました)、ロータリーソング、阿部会長の歓迎の挨拶に引き続き、250人の聴衆を前に、ベストのプレゼンテーションをしました。時間もピッタリ、楽しい最後のお勤めでした。

プログラムを全て消化して、その午後はフェルメールの展覧会に行き、井上さんの家の近所の市場を探検し、ヒサエさんと食料およびお酒を最後の夕食用に買いました。盛大な食事の最中の話題は、スポーツ、それも井上紀人さんのゴルフの腕前とスコットランドでプレーしたいという彼の願いについてでした。前のホスト達に対してと同様、私は彼らが英国を訪問すれば私の家に大歓迎しますと約束しました。

6月3日の朝、20人のロータリアン、ホスト家庭、友人が関西国際空港に現れたことに圧倒されました。多くの人が我々のコレクションに加わる写 真をお別れのギフトとして持参しました。長く残る出発の思い出は、微笑みと涙がミックスしています。

帰国後の何週間か、我々は団体で、また個々に、プレゼンテーションをしました。我々が直面 した最大の問題は、豊かな体験を30分のスピーチに凝縮し、何百枚のスライドから報告用の写 真を選ぶことでした。これからの2ヶ月にもさらに多くのスピーチに招待されています。私はまた、私の地区を代表するチームの選抜プロセスにも関係しています。9月にはアリゾナの第5490地区から来るチームを受け入れます。またこちらから派遣するチームを援助するのにベストを尽くす積もりです。

結論

過去一年間に、私のチームと私は、GSEを成功に導くために必要な全ての要素を経験してきました。一生懸命作業し、プレーし、望む限りのサポート、激励とホスピタリティを享受しました。しかし、この交換で最も重要であり、かつ予想しにくい要素は人です。ベストを尽くして調査し、準備し、リハーサルしたプログラムでも、パーソナリティのちょっとした衝突で損なわれてしまいます。また逆に、カギとなるプレーヤー達が積極的なラポールを掛けることができたなら、良い交換は偉大な交換に変わることが可能です。我々の場合がそうでした。

松岡茂雄委員長とその委員会、中村健さん、加藤隆さんとそれぞれのチームの熱烈なアプローチを通 じて、我々は長期に亘る友情を打ち立てました。そして私は、GSEをサポートし続けます。

有り難う

ロータリー財団と国際ロータリーに、GSEに参加する機会を与えられたことに対して。

1030地区のガバナー、ジョン・ビラニー、財団委員長イアン・ウォーカー、地区ガバナーノミニー、マリリン・ポッツ、パスト・ガバナー、ジョン・サザリングに、準備を助けて頂いたことに対して。

1030地区の過去のGSEチームリーダー、ピーター・ジュイットとデビッド・パーキンソンに、頂いた助言に対して。

テリー・ロビンソン会長とへキサムロータリークラブに、サポートに対して。

2660地区のガバナー、柏木尚さんに、日本への温かい歓迎に対して。

松岡茂雄さんとそのGSE委員会に、我々のためのハードワークに対して。

中村健さん、加藤隆さんとそのGSEチームに、特別の友情に対して。

我々のホストに、惜しみないホスピタリティと家に迎え入れて下さったことに対して。

旅行中、名刺を下さった、200人の方に、お会いできて良かったと感謝。

ホテルニューオータニ、特にトレーダー・ヴィクズバーの我慢強いスタッフに、我々の日本語をしゃべろうとする試みに耐えていただいたことに対して。

そして最後に、我々のチームに、良質のユーモア、友情、気さくなプレゼンテーションへの絶えざる献身に対して。

アンドルー、ヘレン、エマそしてヘレン。あなたがたと旅できて良かった。

将来の交換への提案

GSEをサポートする世界中のロータリークラブへ。ストップしないで。