GSE東北イングランドの旅 

中村健(チームリーダー、箕面中央RC)

 

1030地区とは

藪から棒みたいな話で突然、「GSEを引率して英国のRI1030地区へ行ってこい」と言われた 。「イングランドの北東部でダラムという町が主邑らしい。ゴルフの名門コースがあり、大いに楽しんでくればいい」とのことだったが、ボクはゴルフをしないし、どんなのが名門コースかも知らない。

国際ロータリーの名簿で1030地区を調べると、イングランド北東部となっているが、はっきりしたテリトリーの説明はない。 地区内六十数クラブの地名をたぐって、英国東海岸のニューカッスル市とダラム市を中心とした一帯である、とまではほぼ判った。こちらは日本流に、先ず行政区域としての府県が頭にあり、府県の英語がカウンティーだという前提で地図を眺めると、はっきりしているのはダラム県とノーザンバーランド県という二つの県である。 ダラム県の主邑はダラム市、これだけはしごくはっきりしている。ノーザンバーランドは北方スコットランドへの隣接県だが主邑はわからない。しかしそれはまあいい。

困るのはダラム県・ノーザンバーランド県以外のところ、つまりニューカッスル市や、南のクリーブランド市(?)などは何県に属するかということ。地図には県名が出ていない。 ニューカッスルは有名な100万人都市だから、おそらく政令指定特別市であるとにらむ。しからば地図にクリーブランドと表示されている南のほう一帯は何県か。この行政区域についての疑問は、一見どうでもいいようなものの、行って帰るまでずっと頭の中にこびりついていた。

結論から説明しておこう。イギリスではだいぶ小さな、人口20万人程度の都市までも、日本でいう政令指定都市になっていて、カウンティ(県)は、どちらかといえば田舎の町村の寄り集まり地域なのである。例えば、ニューカッスル。 この辺り一帯は平均30万人くらいのゲーッヘッド市、サンダーランド市、ニューカッスル市などが集まって175万人の複合都市を形成している。地名としてはタインandウエアで、いわばこれが県名のようなもの。そのほぼ中心部にあるニューカッスル市は、大阪でいえば北区か中央区に該当する。
(註:タイン&ウエアとは、タイン河とウエア河に挟まれた地域という意味)

ボクが持っているタイムスの大地図帳にクリーブランドという名で出ている地域一帯(1030地区の南部)は、いまティースサイドと呼ばれているが、その前はクリーブランド、もう一つ前はノースヨークシャー、そのまた前はノースライデングと呼ばれていたらしい。ミドルスバラ市を中心とした複合都市圏で、政権が変る度に地名が変わる、とロータリアンが言う。
(註:テイースサイドとは、テイース河流域の意味)

もともと広大なノースヨークシャー県北端の一部だったのが、都市化し独立(?)したようで、その証拠に隣接する南側はいまもなおノースヨークシャー県と呼ばれていて、そこは1030地区ではないらしい。タインandウエアとテイースサイド という二つの都市圏に南北の海岸部を扼された広い農業地帯がダラム県で、その中心がダラム市という教育観光都市である。ダラムは、歴史的、地理的にみて奈良県奈良市のごときモノか。

タインandウエア と ダラム県 の北に隣接した地帯がノーザンバーランド県で、広漠として遥かスコットランドに連なる。
(註:ノーザンバーランドとは、もともとアンバー河より北の地を意味した。)

このいわば2府2県が RIBI1030 のテリトリー、とボクは解釈したが、現地のロータリアン諸公にはそうしたはっきりした認識が無い。聞いても「知らぬ 」と言う。なぜなら、イギリスでは、もともと府県・郡・市町村の行政上の上下関係(TAXSON)があいまいで、だれも気に留めない。 行政はほとんどロンドン政府直轄で、その下部連絡先は府県・町村よりもむしろ郡(ディストリクト)になってい、警察、水道、電気、土木、税務などは、それぞれ目的に即応した異なる組合わせの市町村による運営がふつうである、という。だから例えば、だラム県警本部の管轄に、ノーザンバーランド県の一部も入っている。  

役所や官庁はスリムに出来ているらしく、市長に会いに行っても、門番と、ガランとした議場と、象徴としての市長が居るだけで、事務員の姿が見えぬ ときもあった。(しかしお茶を運んできたから、隣室にお茶汲みくらいは居るのかもしれない、と思ったりもした。)政治に必要な現業事務所は必要に応じてあちこちに分散していて、県庁とか市役所の本部には,おおぜいの事務職員を置いてないらしい。

国際ロータリーの名簿に、RIBI1030のテリトリーは「イングランド北東部」、と簡単に記していて、何県何市と何県何町にまたがる行政区域などと明記してないのも、むべなるかなである。

RI1030のロータリークラブとロータリアン (1999−2000地区発行ダイレクトリーによる)
67クラブ、2285人、平均34人
古参クラブ:ニュウカッスルRC(67人)1915年創立。サンダーランドRC(57人)1922年創立。1945年以前創立のRCは29クラブ、 もっとも新しいRCは1991年創立(2クラブ)1922‐27年の間に、多くのRCが創立され、終戦前後にも順調に新クラブが創立された。終戦後では、1970年代に多くのクラブが創立されたが、1990年代は低調。
最多会員クラブ:ダーリントンRC(1923年創立)71人
最寡会員クラブ:フェリングRC(1960年創立)9人
ガバナー:ジョン・ビラニー 52才、漁業など数種の職業を経て、現在は水処理エンジニアリング会社経営。ニュートンアイクリフRC(1977創立、30人)所属。


新聞の折り紙兜をかぶったジョン・ビラニー ガバナー、

次期ガバナー:ロン・レイド、ロングベントンRC(1977年創立26人)所属、
次次期ガバナー: マリリン・ポッツ(うら若い女性)、ニューカッスルRC所属 翻通 訳業(近年、ガバナーのなり手が無くて困るらしい、いずこも同じか。)
会員:平均年齢55才前後。(ゲーツヘッド東RCは一見して老人多く、恐らく平均65才くらい。)58−62才くらいの定年(65才)前退職の医者・教師と、獣医が目立つ。 女性会員=居ないクラブの方がやや多い。
クラブ例会:昼例会RCと、夜例会RCがいまのところ半々。昼例会では新会員を集め難く、昼から夜に替えようとの議論が多い。例会場は、多くは安価なパブで一回食費800-1000円くらい。見るからに高価なホテルを例会場にしているRCは僅少。開会に際してロータリーソングは歌わぬ が、GRACE(お祈り?)をする。
(一例) For what we are about to receive, May the Load make us truly thankful, And forever mindfull of others less fortune than ourselves, AMEN 
まことに謙虚、かつ敬虔で、尊敬に値する。 クラブ事務:事務所も事務員もなく、事務は会長宅で会長が担当する。ガバナー事務所も、どこにあるか、聞いたかぎりでは誰も知らない。たぶん、ガバナー宅でガバナーがするのだろう。(正式印刷物にもガバナー事務所の記載はなく、ガバナー個人の住所・電話のみ。) 会計は、無報酬の地区会計(ことしはRtn Tonny Everett)が片手間で担当している。
ZONE:1030地区は、わが国の「分区」または「組」のような
Zone1 ノーザンバーランド県
Zone2 タイン河以北のタイン&ウエア地域
Zone3 タイン河以南のタイン&ウエア地域
Zone4 ティースサイド地域
Zone5 ダラム県
に分れていて、われわれのプレゼンテーション(スライドを使用した日本の説明)も各ゾーンごとに行った。(5名の、各ゾーン担当アシスタントガバナーが任命されている。)
インナーウイール(Inner Wheel):地区ロータリアン夫人の会。公認され会長も任命されている。内輪会か。 ロータリーの奉仕:身体障害者少年への援助、アフリカへの使用済み眼鏡寄付、目の不自由な人たちへの治療援助、ネパールへソーラーエナジーパン焼き機寄付、校内暴力対策ビデオの作成配布、東欧圏社会援助など、ひじょうに活発である。

RI と RIBI
RI本部はアメリカにあるが、そのアメリカは、いわば英国の分家新宅である。英国ロータリアンとしては分家の下につくわけにはいかない。大義名分上、彼らは英国ロータリー、つまりRIBI (Rotary International in Great Britain and Ireland) の下についていて、そのRIBIがRIに加盟している、という形式をとっている。けれども柔軟な人たちだから、RIBIといったり、RIといったり、ランダムに両方を交互に使っている。1030地区1999-2000の正式ダイレクトリーの表紙には Rotary International と印刷してあるが、次の見開き頁では Rotary International in Great Britain and Ireland となっている。どちらにしても DISTRICT 1030 であることに違いはない。

お出迎え
われわれRI2660地区のGSEチーム5名は、DISTRICT 1030 からの招待で1999年9月4日朝10時30分にニューカッスル空港に降り立った。出迎えてくれたのは
直前ガバナーRtn&Mrs. S.Croft(StocktonRC)
パストガバナーRtn Jim Southering(AshingtonRC)
Rtn Bob Crosby(PontelandRC)
Rtn Dick Coard(PonelandRC)
Rtn Eric MarshallPontelandRC)の5名。
直前ガバナーのクロフト氏は、ロータリー国際奉仕のためハンガリー旅行中のガバナーBILLANY氏の代理、サザリング氏は元RIBI元国際奉仕委員長で、GSEリーダーとして仙台盛岡地区へ行ったこともあるパストガバナー。あと3名は飛行場最寄りのRCの会員。ひと晩休息のため宿泊する空港近辺のホリデーインへ案内され、休むまもなく別 室で顔合わせの挨拶。飛行場では、やぁやぁどうもどうも の挨拶だけでよかったのが、ここではまずガバナー代理クロフト氏の長く鄭重で正式な挨拶、つまり歓迎の辞。あわててボクもしどろもどろの挨拶。さぁたいへん。格式高き英国がいよいよ始まった、と、これから先のスピーチの旅が思いやられ、身の引き締まる思い。

直前ガバナー クロフト氏の歓迎の辞                                        

2府2県の土地柄
「英国は日本と同じ小さな島国」と想像していたのが、のっけに外れた。見渡せば山一つ無く、無限に連なる緑の大地。連続したゴルフ場とも見え、大草原の牧場とも見える。「山がない」 というと、遥か彼方の地平線を指差して、「それあそこに山がある、タイベット山だ」と、のたまう。目をカッーと開けてその方向を睨んだが、ただ見えるのは大空にたなびく白雲のみ。まさに「雲か山か呉かタイベットか」である。何が島国、日本とはまさに雲泥の差であった。どうりで、イギリス人を評して「島国根性」とは言わない。 ・・・・

もちろんニューカッスル附近は大都会で高層ビルも乱立してい、大きな工場も無いことはない。しかし工場は日本のように薄汚れていないし、それも海岸からタイン河下流一帯に限られていて、遥かに眺める緑の大平原のうちの一部に過ぎない。おまけにこうした大都市圏の内部といえども、過半の地域は緑に覆われている。ではこの緑の内容はいったい何なのか、そこが大事なところである。

ざっとみて東西50キロメートル南北100キロメートル、RIBI1030テリトリーの約半分ほどでもあろうか、それが人の住むところとなっている。(註:あとの半分は「嵐が丘」で有名なムーア(moor)とよぶ湿泥炭層と森林が占める。)なだらかな大地は中世以来の豊かな牧草農地、そして地下には無尽蔵にも見える無煙炭(と、そして鉄鉱石)を埋蔵していた。英国産業革命の前夜から1930年にいたるまで、この大地は石炭採掘に沸き、それを利用した製鉄、さらに造船へと近代産業がここで先鞭をつけた。蒸気機関がこの地で発明され、汽車も世界に先駆けて走った。(蒸気機関の博物館も、汽車の博物館もそこかしこにある。)  ボクらが訪問したワシントン鍛造ロータリークラブ(Washington-ForgeRC)の、いっぷう変ったクラブ名がそれを象徴する。石炭では世界一の輸出港となり、日露戦争の軍艦・大砲はここから日本にむけて送られた。シーメンス事件の元凶もここ、わが皇室や徳川家ゆかりの展示舘も貴族の館(元アームストロング邸)に現存する、という土地柄である。

そこまではよかった。が、問題はそのあとに起こった。第1次大戦ののち、まず造船産業が壊滅した。製鋼所は閉鎖し、石炭はほぼ採り尽くした。残ったのは深刻な失業と、おぞましいボタヤマの連続であった。数百年のあいだ掘りに掘った石炭の残滓は、点景としてのボタ山ではなく、緑の大地をほぼ蔽うばかりの広がりであったと、彼らはいう。

ジャローマーチ

1936年10月には史上有名なジャローマーチ(Jarrow March)が、この町から出発している。失業し、貧乏の極限に立った市民たちがここジャローを出発し、乞食をしながらおロンドンまで行進、政府に救済を嘆願した。歴史はこれを貧乏大行進と記録するが、この町の人々は「ジャロー十字軍(Jarrow Crusade)」とよぶ。ジャロー区役所にはそれを記念したモニュメントがあり、横丁にはいまなおその名のパブすら存在している。


THIS PLAQUE WAS ERECTED TO COMMEMORATE THE JARROW CRUSADE OF OCTOBER 5th 1936
の文面が入れられていて、ジャロー区役所玄関正面に貼られている。「不幸な記念のために・・」である。
区役所の横の路地に「ジャロー十字軍」と名づけるパブがある。大行進はここで 勢ぞろいして出発した。市長や上院議員は途中の町まで旅をして見送った。 参加の資格は、10年以上失業中の労働者。もの乞い道中でロンドンへ到着 したところ予想外の歓待、ついには劇場にまで招待され、上機嫌だったという。

この乞食大行進、遠い昔のおとぎばなしではない。昭和10年、つまりボクの少年の頃の実話であり、参加者のなかにまだ生きている人がいるかも知れない。 もちろんその頃の日本はもっと貧乏だったとも言える。けれども、そして恐らく大多数の日本人は、海の彼方のイギリスにそのような貧乏が存在するとは、当時もいまも考えはしなかっただろう。 1999年9月6日、ボクは、パストガバナーのジム・サザリング氏と共に「ジャローマーチ」の出発点に立った。すぐ隣り通 りに近代的な商店街が出現し、旧市街は整然としていた。緑地スペースがあちこちに存在し、かっての貧乏大行進の面 影はない。しかしこの辺りは旧市内中心部だから、戦前のレンガ建物はまだたくさん残っていて、1936年の姿はいくらか想像できる。だが5分ほど車を走らせ旧炭鉱地帯へ向かえば、もうそこは広大な緑地の連続と、流れるような高速道路網である。哀れなボタヤマもなければ、貧乏の気配もない。 瑞々しく豊かなイギリスの公園都市が遥か彼方まで続いている。いったいどうなっているのだ。あの貧乏はどこへいってしまったのか。だれが貧乏を追放したのか、また誰がこの繁栄を創ったのか。そのお金はいったいどこから来たのか。考えれば考えるほど不思議でならなかった。

炭鉱の跡は一つだけ残されている、それが炭鉱博物館である。緑の敷地は、もとはもちろんボタヤマであったという。空高くそびえる鉄塔は石炭採りだし口、地下には採掘機械がそのまま保存されている。 同年9月8日水曜日、アシントンRC会長のEDさん、パストガバナーのJIMさん、ジョージさんたちに連れられてこの博物館へ行った。正式のなまえは Woodhorn Colliery Museum という。天国と地獄、栄光と悲惨が共存する不思議な博物館である。

天国と地獄の共存(雄勁なイギリス精神か?)
まずは天国(その1)
宮殿にも負けぬロココ式のお屋敷で着飾った炭鉱主一家勢ぞろいの大きな油絵。勲章を胸にした中央の紳士ははもちろん サー何某と称する貴族であろう。横に並ぶはその奥方、長い裳すその先が床に広がる。そばに並ぶ短パンツの子供とパニエスカートの娘たちはあきらかに貴族上流の御曹司とお姫様。この世をばわがよとぞ思う望月の、欠けたることも知らぬ 栄耀ご一家の、その巨大な肖像画が数枚、壁いっぱいに掛けられている。
天国(その2)
"Wor Jackie"Milburn なるフットボール選手の実物より大きい立体パネルや写真が数葉。説明書にはニューカッスル・ユナイテッドのフットボール LEGEND でここの炭坑夫だったとある。リージェンドとは、聖人、偉人、伝説上の人物のことだから、さぞかしこの ウオー・ジャッキー君も世界に名を馳せた選手だったのだろう。(彼の立像は街の目抜きにも立っている。庶民の英雄万歳!)
つぎに地獄(その1)
四つんばいになって進む炭鉱の内部再現、這いながら炭車を引っ張る痩せこけた女性たちの姿。リアル過ぎて目を蔽いたくなるシーンがいっぱい。石炭を運ぶ女性たちはみな、栄養不良と過酷な労働で、思春期になってもバストが膨らまなかった、と歴史は伝えている。
地獄(その2) 炭鉱夫たちの住宅の内部写真。そこには風呂もトイレもない。一棟数百戸の長屋ではトイレは屋外、木陰の石炭ガラの上で用をたした。寒風の吹く冬季は特につらかったという。こうしたうなぎの寝床を延長したような、やたら細長い炭鉱住宅(九州の産炭地、多久市や厳木では、もっと酷いものを「炭住」と略称し、バラックの各一棟を1丁目や2丁目と称した)は、現在なおたくさん残存しているが、いまは各戸入口に下屋(げや)を下ろしてトイレを付設している。
地獄(その3)、または天国(その3)?
博物館の正面芝生にひときわ高い「被災者慰霊塔(Disaster Memorial)」がある。炭鉱産業の宿命とはいえ、たびかさなる落盤爆発事故は、展示された写 真パネルとともに、その悲惨さに胸の傷む思いがする。 Wor Jackie の雄姿は結構なことだが、勲章と宝石をきらきらさせた貴族一家の、その燦然たる大額縁に隣り合わせた炭鉱夫および家族たちの悲惨な展示は、なぜそれらを共に並べ見せたのだろうと、心無い趣向に一瞬のたじろぎを覚えるのはボクだけであろうか。紛れもなくここに天国と地獄が同じ部屋に共存しているのである。平然としてそうした博物館をつくる、その英国人の心理はいったいどうなっているのだろうか。「もし日本人ならそうはしまい・・何か外の方法を考えるだろうに・・」という勝手な思いが、わが胸をよぎる。しかしそれを、英国人はやってのける。彼らは天国と地獄を平然として共存させ、人にも見せ