マルコ・エルートの感想

2000年9月のある日、知り合いのロータリアンが日本行きのGSEプログラムに参加する気があるかと私に訊ねました。彼の質問は、私を直ちに熱狂的にさせました。オランダのビジネス社会で4年間働いた後ですから、他の若い専門職業人と共に、違った社会を研究することは、非常に魅力的でした。ヨーロッパ人にとって、日本は非常に遠い、日の昇る国ですから、その社会は非常に特別 です。私が日本について知っていることは僅かで、「日本は非常に人の多い、ハイテク、古い伝統の国。人はよく働き、経済は10年以上にわたってバブル化した」というようなことでした。

この研究プログラムは、この「神秘的な」国を私自身で発見する大きな機会となることでしょう。ホスト家庭に滞在し、日本人の日常生活に触れ、日本の文化を知るでしょう。職業研修プログラムではバブル経済、またその結果としての内閣再編について学びたいと思いました。

プログラム

2001年3月の終わりに韓国のソウル経由で大阪に飛びました。日本への最初の遭遇は2660地区GSE委員会の温かい歓迎でした。日本にいることは疑いありませんでした。というのも、まず、名刺を交換し、ホストが我々の写真を多く撮ったからです。最初の日々、それから毎週末は親切なホテルニューオータニに宿泊しました。このプログラムは、日本人の組織能力の第一の例でした。GSE委員会は充実しヴァラエティに富むプログラムを用意し、また我々に与える印象のインパクトを察してくれました。

ホスト家庭

大阪滞在中、異なったホスト家庭でとてもアットホームに感じました。日本の通常の家事を論じるのは非常に特殊なことです。日本の家庭はオランダの家庭より、かなり伝統的な生活様式を持っています。オランダでは妻と夫が共に家事し、男性と同様に女性も(パートタイムの)仕事を持つのが今日ではノーマルになっています。日本の家庭は、まだ家事の担当がより固定されています。妻は家事を担当し、男は収入に責任を持ちます。私はこのような日本の生活様式に惹かれたことを認めねばなりません。これは私が怠け者だからでなく、日本女性の大きなホスピタリティと料理の上手さが原因です。日本とオランダでは家屋にいくらかの違いがあることを言っておきましょう。日本では自由になる建築土地が乏しいため、日本の家はオランダの家より小さくなっています。またオランダと比べれば、日本の家の庭は小さいものです。他方、日本の家には一つの伝統的な日本間があります。この部屋はオフィシャルな場合に使用されます。床には畳が敷いてあり、低いテーブルを前にして床の上に座ります。そこには美しい、祈りの祭壇があります。それぞれの家には身体を洗う、深いお風呂があります。オランダでは多くの場合、シャワーを浴びるだけです。しかし、日本人はシャワーを浴びた後、熱いお風呂に入ってリラックスします。これはどの家庭へ移動しても守られている習慣です。どのホスト家庭もいろんな場所に連れ出してくれました。私は自分の歌唱能力を少し恥ずかしく思いましたが一度ならずカラオケバーで大いに楽しみました。サクラ見物にも出掛けました。ホストの一人のお寺では本物の花見パーティに参加し、また僧侶の書道練習にも加わりました。明石海峡大橋を渡って近くの温泉で入浴しました。何回か夕食を外でしました。そのうち一回は大阪の繁華街で、屋台でした。これらの活動の間に、家庭生活、スポーツ、料理、社会などいろいろのテーマについて話を交わしました。その場合、政治的なテーマ、社会の安全確保や薬物、安楽死、同性同士の結婚などオランダのデリケートな立法課題についてディスカッションするのは、時にはたやすいことでないことに気が付きました。どの家庭も私の面 倒をとても良く見ていただきました。

体験

公式プログラムでは多くの異なった体験をしました。モダンアート、民族学、治水工学のようなテーマの博物館(美術館)を、数カ所訪れました。それは面白いと同時に、もっとシリアスな企業訪問やロータリー例会を補完してくれました。全ての体験について述べるのは不可能ですが、このパラグラフでは以下のことを述べたいと思います。

相撲

日本での最初の土曜日に大相撲に行きました。このトーナメントは日本では大変人気があり、全国にテレビ放送されています。スタジアムにはヨーロッパで見慣れている椅子席はありません。1.5メートル四方のある種のピクニック場所に四人が一緒に座布団の上に座ります。相撲は全ての人のためのスポーツです。スタジアムは老若男女でいっぱいです。相撲レスラーは太っているだけでないことに驚きました。実際は、彼らはインプレッシブな体つきのスポーツマンでした。我々は日本の観衆に交じって声援を送りました。その日の終わりには座布団が宙に舞いました。

お茶会

滞在中、幸運にも何回かお茶会に参加しました。お茶会は、日本の伝統的な瞑想の儀式です。お茶をたてるプロセスには多くの正確な手順があります。お茶は天然の茶葉の粉を竹の茶筅で混ぜてつくられます。お茶は自然な緑色で苦い味がします。お茶を飲む前にお椀を二回、右に回さねばなりません。お茶は3回半啜って飲み、お椀を二回左へ回して返します。このセレモニーは瞑想のためだけでなく、顧客とリラックスした時を過ごすビジネスミーティングとしても開催されます。

宗教

日本には三つの主導的な宗教があります。仏教、神道、キリスト教です。我々は、滞在中、いろいろな仏教寺院、神道の神社を訪問しました。特に奈良の東大寺はとても印象的でした。この寺には巨大な仏像が屋内にあり、建物自体も世界で最大の木造建築物です。私は一週間、仏教のお坊さんの家庭にホームステイしました。彼と弟子たちは、仏教の六大宗派について教えてくれました。彼らはいわゆる真言宗で、この宗派の主張は、人間に欲はつきものでそれを無視してはいけないということです。我々の世界では宗教は戦争の主な源です。それは以前はユーゴースラビアで、現在は中東で見られます。その争いは日本ではありません。日本人は生活の中にいろんな宗教を混ぜ合わせ、そのことを誇りにしています。即ち、神道は誕生に関するセレモニーで、大変人気があります。モダンな結婚式はしばしば、キリスト教のスタイルで行われます。一方仏教は葬式では主流です。

ヒロシマ

我々の訪問で最も感銘の深かったことの一つはヒロシマでした。世界中の誰もが1945年8月6日の原爆投下について知っています。しかし、地球の反対側に住んでいる私たちのような若者には、ヒロシマは常に遠くの都市でした。この都市への訪問は、感情を交錯させます。そこに行ったことを喜ぶと同時に、他方では、そこで起こった惨事を感じるのです。平和記念資料館は大変教育的でした。日本の戦争の歴史が詳細に亘って要約され、原子爆弾の影響についての印象的な映像が多くありました。原子爆弾はこの都市を完ぺきに破壊し、その日、14万人が犠牲となりました。我々人間は、このようなドラマが二度と起きないよう、この戦争について学ぶことを希望します。

経済

この旅行中、我々は一般研修でも、職業研修でも多くの会社を訪問しました。これらのプログラムの中で、私は日本のビジネスの高い抱負と訓練レベルについて学びました。パナソニック、サンヨー、NTT西日本での受入は、コンシューマーエレクトロニクスと通信産業で開発部門がトップレベルで機能していることを示していました。ヨーロッパが無線のプロトコルの準備をしたところなのに、日本人はカラー液晶の携帯電話、それもIモードでインターネット接続できるものを持っています。日本ではまた、いろりおな家庭電器がコンピュータ操作に統合される日が目前です。コンシューマーエレクトロニクスの生産過程はビジネス訓練についての洞察を私に与えてくれました。コンシューマーエレクトロニクスの会社は良くプランされた生産ラインを非常に清潔な工場に持ち、クラシック音楽が流されて従業員の正確さのケアをしていました。

失われた10年

日本経済はその野望と訓練に拘わらず、この10年以上、バブルにあえいでいます。東京三菱銀行、エンゼル証券、野村証券での職業研修は、現在の経済状況の原因と結果についていくつかの洞察を与えてくれました。これらの問題の追求を続ける前に、経済のような相互関連した現象では、その相互影響性の故に、原因と結果をたやすく区別できないことを述べておきたいと思います。

保護主義

日本は、自給自足の独立した島国としての長い歴史を持っています。おそらく、これがこの国の保護的なマナーの主な理由かもしれません。今日のグローバル化したマーケットの中では、保護主義は経済不況の最も重要な原因の一つだと私は思います。日本はWTOに加入していますが、外国の会社が日本のビジネス社会の中で業務をすることは、いくつかの理由で困難だと思います。まず第一に、日本政府はある種の輸入禁止策や関税障壁を追い求めています。この政策で、日本は自国のマーケットを保護しています。ヨーロッパの政府組織は、例えば、公開入札の義務があります。このことは、一つの政府組織が大量の製品を買い付けたり、大きなプロジェクトをスタートさせるとき、国際的な会社が応札できることを意味します。日本の保護主義の、もう一つの形態はサプライチェーンに関する国内法です。ある種の産業では、サプライヤーが自分自身の購買や販売チャネルを選ぶことが許されていません。彼らは他の小売業者や卸売業者と取引せねばなりません。一つの例をあげれば、フランスの小売業者が、昨年大きなトラブルに遭遇しました。それは自社商品を輸入し、ダイレクトに市場で販売しようとしたときのことです。日本ではオーソライズされた輸入組織、卸売構造と取引しなければならないのです。フランスの小売業者のような他の市場参加者は、このような政策により干渉を受けるのです。

規制

衰退のもう一つの主な原因は、市場の力に対する政府の規制です。過去においてはリーゾナブルであった、いろいろな規制のシステムや慣行が邪魔者となり、重い負担、大きなコストを課しています。医療や社会保障に次いで、主に労働市場における法規制が高コスト構造をもたらしています。自動化され高効率の生産プロセスがあるにも拘わらず、多くの会社はそのような先進の設備増強を労働市場の公的な、あるいは文化的なルールにより控えています。終身雇用、年齢に基づいた昇進は、日本ではまだ極めてありふれています。技術開発や効率化に高いコストを会社が払っても、被雇用者の回転や解雇が正規のテーマでないため、人件費は低くなりません。

業界間の分離

不況の原因として、私が最後に言及したいのは、日本における厳密な業界間分離です。いろんな産業部門で、生産者、銀行、そしてまた政府の間に強い協力関係と相互依存があります。いろいろな公的金融機関が固定した産業部門に金融商品やサービスを固定しています。この構造は商業銀行間の競争の欠如、生産会社と銀行の相互依存をもたらします。生産会社の借り入れレベルは高く、銀行は利益の上がらない貸し出しのせいで、ソルベンシーがなくなります。最後は政府がつけを支払います。つまり、現在の情勢では日本政府が銀行からの巨大なローンの保証人です。

高価格と低利益

このような経済状況の主な効果は、日本における高価格水準です。高価格は、消費者、そしてまたビジネス組織の支出水準の低さを招きます。外国からの投資家にとっては、そのような環境の中で腰を落ち着けることが非常に困難です。次ぎに、低い支出水準は投資のリターンに深い影響があります。生産能力は過剰になり、人件費は他の固定費用に比して過大になります。利益と投資リターンの低下は資産価値と生産手段に悪影響を及ぼします。個々人や専門ビジネス企業に資本投資の余地がなくなり、これら長期的資産の価値が低下します。これが日本においてもまた、起きたことです。個人住宅の価値はこの10年間で半分になり、大阪都心部の土地価格も、90年代初期の一平方メートル15万5千ドルから、現在の8万ドルにまで低下しました。

世界第二の経済規模

長期的な経済問題にもかかわらず、日本は世界で二番目の経済で、あきらかに非常に富んだ国です。2000年のGDPは4兆2千億アメリカドルで、貿易収支は1000億ドルのプラスです。日本の主な輸出品は、もちろん自動車です。その他の主な輸出品はコンシューマーエレクトロニクスと写真用機器です。全輸出利益は2000年までに4兆7千億ドルにのぼっています。天然資源に欠ける日本は、化石燃料の80%を輸入しています。その次に主要な輸入品は、携帯電話のディスプレーのような半製品と食料です。日本の豊かさは、例えば大阪のビジネス地域で見られます。我々はゴミ焼却場や国際会議場(グランドキューブ)などいくつかの場所を訪問しましたが、それらは非常にエキサイティングなビルディングの中にありました。

将来の予測

我々の滞在中、自由民主党は小泉純一郎氏を日本の新しい首相に選びました。小泉は保守リベラルな政治家ですが、経済の再構成へ新しい刺激を与える強い意図を持っています。労働に関しては、政府の影響を規制緩和し、自然な雇用転換の刺激をはかろうとしています。失業率を低下させるために、労働時間の短縮が導入されるでしょう。貿易関係法律の規制緩和は、実行されるもう一つの政策です。これは市場の力を刺激し、国内的、国際的な競争をもたらすでしょう。消費者の支出水準を刺激するために、現在の内閣は所得税の軽減も、また考えています。オランダと比較すれば、日本の現在の所得税率20%はすでに極めて低水準です。オランダの平均所得税率は約40%です。

政府に次いで、商業ビジネスも従来のポリシーを再編しつつあります。日本の会社は、いろんな製品を大規模に生産する慣行があります。そのため日本の会社は組織が複雑で、固定費が高く、生産設備も高価になっています。今日のグローバリゼーションの下で、日本の多国籍企業はコアビジネスに復帰しつつあります。彼らはサプライチェーンを拡大していますが、それはコスト削減、競争に有益です。企業は、また、生産能力の削減を行おうとしています。

現在の、勤勉な日本における経済不況は、すでに長期間続きすぎています。日本は国際ビジネスをいつもリードするプレーヤーでした。私は現在の内閣および企業の対策が近い将来、実を結び、経済が再び繁栄すると確信します。

身体障害者用スポーツセンター

職業研修の最終日を私は身体障害者用の二つのスポーツセンターで過ごしました。身体障害者用にこの種の施設があることに驚きました。私自身、身体障害者でアクティブなスポーツマンでした。しかし、私は身体障害者用の特殊なスポーツ施設で練習したことはありません。オランダでは、身体障害者を出来る限り通常社会に溶け込ますようにしています。身体障害者は普通の仕事に就けますし、必要なら職場はそれに対応します。オランダのスポーツセンターもまた、身体障害者に対応しています。今日では日本も同じだと学びました。身体障害者用のスポーツセンターというアイデアは、1970年代初頭に遡ります。当時はまだ統合が十分ではありませんでした。その当時、身体障害者は運動の練習をしないか、あるいは全く外出しませんでした。日本でもまた事情が変化し、身体障害者が通常社会で活動する可能性のあることを私は喜んでいます。

そのスポーツセンターの一つで、私はソウルの1988年パラリンピック水泳競技での日本人選手の何人かに会いました。これは大きな驚きでした。私もまた、この競技の選手でした。そこで我々は体験を話し合い、ソウルの写真を見、身体障害者スポーツの発展について語り合いました。

結論

このレポートを書いて、時を経るにつれ体験がさらに明白になってきました。大阪地域で滞在した間、私は素晴らしい時を持ちました。教育的なミーティング、多岐な活動があり、それに多くの楽しみがありました。私は、自分自身でこの「神秘的な」国を発見したかった、そして発見したと思います。日本について私の知ろうとしていたことは本当だったと分かりました。日本は非常に混雑し、人々はよく働き、ミーティングの始めに名刺を交換します。しかし、もっといろいろあります。文化的にも、経済的にも、日本は非常に富んだ国です。日本は古い伝統を大切にし、同時にモダンな社会を創造しようとしています。大相撲、着物、お茶会が、携帯電話、カーナビゲーション、先進の生産方法と手を取り合っています。日本人は非常に礼儀正しく、少し内気ですが、心温かく、好奇心を持ち、外国やそのできごとに、非常に関心を持っています。

この交換に加わったことは、私にとって非常に特別なことでした。私は第2660地区のGSE委員会に、偉大なプログラムを提供していただいたことに対して感謝したいと思います。このプログラムに参加してくださった全ての方々、全ての会社にも感謝します。温かい歓迎と大きなホスピタリティに対してホスト家庭に感謝します。チームリーダーのヘンク・フェーンベルゲンと他のチームメンバー全員には、共に素晴らしい時を過ごせたことに感謝いたします。