5)オランダについてのプレゼンテーションの要約

●ヘンク・フェーンベルゲンのプレゼンテーション

プログラムに関しては、このレポートの他の個所で述べましょう。 先に述べたように、日本のロータリークラブ例会で我々のプレゼンテーションに使える時間は限られていたので、私の担当部分はチームの紹介、我々の地区のガバナー、アド・ファン・オルスト、地区GSE委員長、私自身のロータリークラブの会長と会員からの挨拶の伝達に制限されました。パワーポイントの画像を使って、オランダがどこにあるか、チームメンバーは何処に住み、我々の地区はどの辺にあるかを示すことができました。その場の状況とそれまでのプレゼンテーションの経験から、私のスピーチを調整しました。もちろん、常に準備は必要でしたが、自分のプレゼンは少なくとも実際的であり、当を得ていたと思います。通 訳に付いては心配する必要がありませんでした。というのは、殆どの場合、英語を流暢に話す通 訳が日本語に翻訳してくれたからです。 プレゼンテーションの内容についての情報をロータリアンに周知させるため、GSEコーディネーターの松岡茂雄さんは、最初のプレゼンテーションを録画し、多くのホストロータリークラブに配布してくれました。この情報は、その後の通 訳諸氏により感謝しながら活用されました。

プレゼンテーションが終わると、いつもバナーが交換され、我々は温かい歓迎に感謝して「感謝証書」を手渡しました。このタイムスケジュールと、言語障壁のために総合的な意見交換の機会は不幸にも有りませんでした。テーブルにつき、ランチやディナーを食べながら、ゲストが英語を話せる場合はできる限り意見交換をしました。

●レナーテ・ベルグマンのプレゼンテーション「地理」

オランダは、本当に平らな国です。全てのものが幾何学的な形に分割されます。運河、溝により区画が分割されます。オランダには小さな町や村が多くあります。何百万人が住む、真の大都会はオランダにはありません。しかし、世界でも高度に都市化された国です。4万1千平方キロメートルに1500万人以上が暮らしています。

アムステルダムは一番よく知られた都会で、人口は70万人、オランダの首都です。アムステルダムは経済の中心地であり、ファン・ゴッホ美術館、レンブラントの「夜警」のあるリイク美術館、ステデリク美術館などの美術館のあることで有名です。

17世紀以来、オランダは水面から土地を得ようと努力してきました。土地が多くなることは、より多いお金を意味します。ですから長年に亘って土地造成が続きました。オランダではそれを「ポルダー」と言います。一区画の土地は堰堤で囲まれます。オランダで最大のポルダーは4万8千ヘクタールです。ポルダーを作って水面 から土地を創るために、風車が使用されました。風車が三つ並ぶと能力が増え、それはいまだにオランダの有名な要素となっています。

今日では国土の3分の1が、砂丘や溝により湾口で守らなければ、北海や大河の水面下になります。人口の大多数はこの砂丘と溝によって護られた地域に住んでいます。大都市と、その最も重要な産業地域は、基本的にデルタ地帯である、国の西部に偏っています。ですから、オランダにとって砂丘と溝は大変に重要です。2000人が死んだ1953年の大洪水以来、オランダは「デルタ」プロジェクトを開発しました。

これはオランダの地理の概略で、大都会がどこにあり、いかにオランダが水に対処してきたかを示しています。

●マルコ・エルートのプレゼンテーション「立憲君主制と政府」

立憲君主制
オランダ王国は立憲君主制の国で、本国以外に、カリブ海のアンティレスとアルバ島を含みます。 最初の王、ウイリアム一世から五世代経った、ベアトリクス女王が1980年以来、現在の君主です。彼女は四代続きの女王で、ヘイグで夫のクラウス王子とともに暮らしています。

政府
オランダでは、王と内閣が政府を構成します。そこでは、閣僚が国の運営の全責任を持ち、それ故に王は誤謬を犯しません。 最大多数の政党の一人が首相になります。この6年間、そして歴史上2回目、我が国はいわゆる「パープル(紫色)」の内閣が支配しています。これは社会民主党と自由党、自由民主党の連立です。「パープル」という名は三つの政党のシンボルカラーを混ぜた結果 生じる色です。 オランダ議会には第一院と第二院があります。議会はヘイグの「へト・ベネンホフ」に所在しています。議会はオランダで最高の政治機関です。立法の権限があります。 全国政府の次は二段階の地方政府です。第一はプロビンスで、日本の府県に当たります。オランダには12のプロビンスがあります。プロビンスはミューニシパル(市)に分かれます。オランダには現在、約500のミューニシパルがあります。

ポルダーモデル
正規の政府機構以外に、政府と雇用者、被雇用者の、社会経済的に非常に強力なコンセンサスを私たちは持っています。 1980年代初期の経済不況の間に、我々の政府と、雇用者、被雇用者の組合が、給料の節制と労働時間の短縮について協定を結びました。この協定は「ワッセナール協定」として知られています。それ以来、オランダのコンセンサス文化は「ポルダーモデル」と呼ばれています。ポルダーモデルはヨーロッパでも、また世界の他の場所でも有名になりました。

●マーヨ・エバースのプレゼンテーション「余暇の過ごし方」

一般的にオランダ人は生産性が高く、仕事量も大きいのです。そのため、オランダの経済は栄えています。他方、人々は余暇を、ますます多く持つようになりました。オランダでは多くの被雇用者が、週36〜40時間契約です。パートタイム契約の被雇用者も多くいて、それは週36時間以下を意味します。このような事情から、余暇が多く、人々はいろんな方法で自由時間を過ごします。

サッカー
オランダで一番のスポーツはサッカーです。週末には多くの人、特に男性がサッカーをしたり、プロのサッカー試合を見に行きます。昨年、我が国は隣国のベルギーと共催で、ヨーロッパ選手権試合を開催しました。多くのオランダ人がオランダチームの試合を、パブや自宅で友人とともにテレビで見ました。サッカー競技場ではオランダのフアンはいつも見分けが付きます。彼らはオレンジ色の服を着、オレンジ色の髪の毛をし、頬には赤、白、青のオランダ国旗をペイントしています。

アイススケート
冬には、アイススケートの選手権のスプリントと全距離を観ます。長野でオリンピックチャンピオンになった清水のことはみんなが知っています。オランダ選手権、ヨーロッパ選手権、世界選手権を問いません。どの選手権試合でもスタジアムは満員になり、もちろん、誰もがオレンジ色の服を着ています。毎年のことではありませんが、時には屋外でアイススケートができることがあります。零度以下の気温が長く続くと「11都市のコンテスト」が開かれます。これはオランダ北部の11都市を周遊する競技で、距離は200キロメートルです。これは、特殊に訓練された人たちのための競技です。この競技が始まると、人は一日中テレビに釘付けになったり、11都市の一つに大勢出かけます。このスケートは定められた時間内にフィニッシュせねばなりません。特定の時間内にスケーターが到達できないのが明かな場合は、競技を中止させられます。

サイクリング
オランダでは誰もが自転車を持っています。たいていの人は2、3台持っています。可能なら、自転車で職場に行きます。例えば私は、自転車で職場まで10分です。現在の交通 事情では、自動車で行くより早いのです。特に、春と夏には、仕事以外の時間に人は、ただ楽しみのためにサイクリングします。オランダには特別 な自転車道路やサイクリングルートがあります。オランダは申し分のない自転車国で、あらゆるシチュエーションのための自転車が揃っています。

●ロナルド・ファン・リーンデンのプレゼンテーション「経済と輸出」

私のプレゼンテーションは、オランダの経済と輸出についてです。経済の実体と数字、輸出、有名なオランダの企業、日本への輸出について述べます。

オランダは、先進技術の、高度に産業化された国です。この国には天然資源が乏しく、経済は外国貿易に依存しています。食料加工が大きな産業です。サービス産業が国民総生産の3分の2を占めています。経済成長率は年2.7%(2000年)です。人口は老齢化しつつあります。14%が65才以上です。(2030年には26%以上になります)

主な貿易相手国はドイツ、ベルギー、フランス、イタリー、英国、そしてアメリカです。最重要輸出品は、食品(チーズ、ビール、野菜、食肉)、花卉と球根、化学製品(プラスチック、薬品、塗料)、サービス産業(運送、銀行、保険)です。有名なオランダ企業はフィリップス、KLM、ABN、シェル、INGとユニリーバです。オランダは全EUの日本向け輸出の5%を占めます。日本向け輸出品の主なものは、花卉と球根、乳製品です。

●マルチナ・モレンディクのプレゼンテーション「歴史とアート」

オランダの始まりは、ローマ帝国の一部としてでした。これは後に、ドイツ帝国となり、スペインの影響もかなり受けました。オランダは宗教的、政治的抗争のせいで、多くの異なった地域に分かたれました。オレンジ公ウイリアムは、今日のオランダの開祖と思われます。彼はオランダの17の地域を統一しようと望みました。誰もが彼のアイデアに賛意を表したわけではなく、彼はそれを彼の生命で償いました。

オランダの経済は17世紀に花開き始めました。この世紀は万事好調で、ゴールデンセンチュリーと呼ばれています。1602年のVOC(東印度会社)の設立は、繁栄する経済にプラスの影響を与えました。オランダはジャカルタを征圧し、バタヴィアと名付けました。バタヴィアは、ヨーロッパのための物資集散センターとして機能し、多くの舟が行き交いました。黄金の世紀はまた、オランダの詩人や画家たちにとっても良い世紀でした。その中にはレンブラントがいて、世界中に知られています。

1814年にオランダ王国が発足しました。当時はベルギーを含んでいましたが、一年後には分離しました。ウイリアム一世が初代の王で、我々の民主制をスタートさせました。

我々の名刺は、ピエ・モンドリアンのデザインに準拠しています。彼は20世紀のオランダ画家で、殆ど全人生を画を描いて過ごしました。多くの土地に住み、多くの人の影響を受けました。これは彼の画に反映されています。彼は具象的な絵からスタートし、徐々に抽象的なスタイルに変わりました。彼のモットーは一番重要なものに集中するための単純さでした。彼は、その最後の絵「ブギウギの勝利」を完成させることができませんでした。その完成の前に死んだからです。それでも、オランダ政府はそれを3千500万ドルで買い取りました。