エリン・アレクシス・グラフの報告

2002年春

ロータリーのGSEチームがしたのと同じ様に日本を経験することは誰にもできません。私たちは、観光客でもなく、軍人でもなく、親類やビジネスパートナーでもありませんでした。私たちは有名人になったような感じがしました。ある意味では、そうだったのです。私たちが会ったどのロータリアンも、私たちが誰で、職業、興味は何かを、すでに知っていました。私たちの親切なホストは、いつもドアを開け、先に入るよう言ってくれるのでした。私たちが快適に過ごせることが彼らの主な関心事でした。関西国際空港に着陸すると直ちに、比べるもののない歓迎を受けました。その後、非常に良い友人とガイドになる一群の人たちにホテル・ニューオータニまでエスコートされました。

そもそもの始まりからお話ししましょう。私のボスがGSEプログラムのことを紹介し、応募するよう勧めてくれました。私は機械エンジニアで、テコンドーの黒帯を持っています。武術に長い歴史を持つ技術先進国を訪問できるとは、何と理想的なことでしょう。ですから、応募し、団員に選抜されました。私は有頂天になりました。

私たちの旅行計画は、両方、ウイスコンシンと日本で何ヶ月も前に始まりました。大阪での一ヶ月に亘る滞在のすべての局面が決定されました。私たちは、このアドベンチャーに備えるため、多くの時間を費やしました。準備には、語学のレッスン、組織上のミーティング、数冊の旅行書を読むこと、アメリカの日本料理店での会食が含まれました。しかし、何もあの14時間の飛行と時差については準備になりませんでした。大阪にとうとう到着するまで、何週間にも亘って、私たちの想像はふくらみました。

第一週:一生の出来事

吸収することが山ほどありました。私たちのチームリーダーは日本に以前来たことがある唯一のメンバーでした。それでも、この週は私たちの誰にとっても「初めて」に満ちた週でした。初めてのホームステイ、初めての日本式お風呂体験、初めて畳の上で就寝、初めて一日三回魚を食べたことなどです。確かに私にとっては、少数派になった気がしたのも初めてでした。900万人がひしめく、忙しい都市で、私はただ一人の天然ブロンドのように思えました。

日本の家はアメリカの家と似ています。違いは主に装飾と宗教的なものにあります。私は、いままで祈りのための部屋を備えた家に泊まったことはありません。どの家にも神社があるのは普通です。障子を開けると、細々した庭や風景が見えたのは想像通りでした。殆どの場合、家は密接して建てられています。全てが近接しています。街路は非常に狭いものでした。

ホスト家庭と過ごした夜は、面白く、また教育的でした。私は自分がどのように暮らしているかを示す写真を持参しました。ホスピタリティは極限でした。私は家族の一員になった気がしました。最初の週の大半は、私の箸使いの不器用さでホスト家庭とロータリアンを楽しませました。こんなにシンプルなものが、フォーク、ナイフ、スプーンに取って代わるなんて不思議でした。練習、練習、練習です!ほとんど全ての人が英語会話能力の貧しさを謝るのに気づきました。その反対で、英語力は素晴らしいものでした。英語を少ししか話さない人と付き合うのにほとんどトラブルは有りませんでした。さらにいうなら、出発前に私たちが学んだ日本語は、二三の単語とフレーズに過ぎませんでした。

大阪に着いて二日目は、観光とショッピングで、その午後、相撲を見に行きました。このような壮大なイベントに出席できて光栄でした。大阪の街を歩くことは、私たちがどこにいるのか、認識させるのに役立ちました。道路サインは日本語でした。何百もの小さい店から、音楽が流れ出ていました。通りがかりのレストランから漏れる匂いは私たちの好奇心をそそりました。私たちは文化と興奮の中に突き入れられたのです。それは私の好きな日々でした。

日本のエチケットに慣れるにはしばらくかかりました。それは頻繁なお辞儀が示すように、フォーマルな社会でした。名刺の交換は誰か新しい人に会えば強制的でした。そして私たちは毎日、数人の新しいロータリアンと会ったのです。午後のお茶は、戸口で靴を脱ぐのと同様、嬉しい習慣となりました。最初のうちは、日本社会の早いペースに私たちは遅れがちでした。しかし、忙しいスケジュールに慣れ、自由な時間を活用しました。

奈良は魅力的な町です。私たちはお習字をし、公園で鹿に餌をやりました。東大寺は、ただただ魅力的でした。室内最大の仏像は驚くような見物でした。トヨタの倉庫、ハイブリッドカーも見ました。私の職業研修日はサンヨーの見学と代替エネルギーの分野における環境的な努力についてのディスカッションでした。太陽エネルギーと燃料電池は日本において重要な分野です。この週末はホスト家庭と過ごし、私は桜の木の下のバーベキューパーティに招かれました。

第二週:さらに素晴らしく

第一週にした間違いもどう解決すれば良いか分かり、日本で動き回ることを学習しました。自分たち自身で快適に何かを買え、日本円を使いました。電車は動き回るのに易しい、そしてお金のかからない方法でした。駐車スペースが乏しいので、自転車は大変ポピュラーです。

第二週までに、私たちは多くの異なった日本料理を試しました。その多くはホスト家庭が用意した家庭料理でした。典型的な食事は、天ぷら、うどん、シーフード、野菜ともちろん寿司です。食事の前に熱いタオルが渡され、手と顔を拭きます。私がいま懐かしく思う習慣の一つです。

大阪の春にしては季節外れの温かさで、ちょうど私たちに向けたように滞在中ずっとサクラが咲いていました。サクラの花がどの公園も取り巻いていました。それらは多くの写真の良い背景となりました。サクラをレシピーに含んだ季節のお菓子は良い匂いがし、デリシャスでした。

第二週は3人のティーンエイジの女の子とその両親の下で暮らしました。日本の女の子であることはどんなことか、感じがつかめました。私は小さいテレビを彼女たちと、夜一緒に見ましたが、彼らほど遅くまで起きていませんでした。毎日、大変疲れているのに、彼女らはまだ春休みの最中だったのです。新学期が私の滞在中に始まりました。服装規定や強制的な制服が高校にあっても、個性を表現する方法はあることを学びました。

私の第二週の職業研修は、特別でした。サンヨーソーラーアークのグランドオープニングに特別招待されたのです。私には有名な教授、浜川博士が同行して下さいました。彼はソーラーエンジニアリングの分野でいくつも論文を書き、教えている人です。それはまた、私の最初の「新幹線乗車」でした。第二週にはアサヒビール工場、息を飲むような日本庭園、礼拝堂と日本における初期キリスト教の遺跡訪問、京都への一日旅行がありました。

第三週:挑戦

第三週の始めは、旅行が半分終わったに過ぎないことの自覚でした。先立つ二週間は、アクションが詰め込まれ、発見と体験に満ちていました。でも、まだ二週間あるのです。家が懐かしくなり始めましたが、他国で過ごす冒険を真に受け入れるとともに現実が始まりました。

一週間に二回、ロータリーの例会に出席し、ウイスコンシンの民族的多様性についてプレゼンテーションしました。第三週までには、私たちはノートを全然見なくても話せるようになり、チームメンバーは他人のセリフを言えるくらいでした。私たちのプレゼンテーションは、日本の生活を理解し始め、二つの社会を関連づけることにより、深みを増しました。

ロータリークラブとホスト家庭の気前の良さは、スーツケースの膨らみで明らかでした。それぞれのロータリークラブや訪問した企業はお土産をくれました。手描きの陶器、伝統的なお茶会で使う扇子、本、額縁、日本のお菓子に到るまで、何でも受け取りました。

日本は本当にテクノロジーのリーダーです。これからアメリカで始まることは、日本では日常品なのです。ほとんど誰もが「携帯電話」を持っています。液晶スクリーンのついたデジタル携帯電話は電子メールが送れ、また写真を撮って他の人の電話に送れます。グループとしても、パナソニックやサンヨーのようなメジャーな技術会社をツアーしました。ダイハツは電気自動車と燃料電池車の中を見せ、試乗させてくれました。

この週、チームは北野病院、NHKのテレビスタジオ、水族館、海洋博物館に行きました。大阪市長訪問は通訳付きの大変公式なものでした。大阪湾のボートクルーズもありました。ホストロータリークラブの一つが大規模なバーベキューとプールパーティを開きました。その晩は少し寒かったのですが、何人かはプールに飛び込みました。私の職業研修は、関西電力の発電所と大阪ガスでした。この週はUSJ、ユニバーサル・スタジオジャパンへホスト家庭と一緒に行って終わりました。

第四週:最後の観察

スーツケースと携行バッグがはち切れそうなのに拘わらず、私たちの冒険の思い出をアメリカへ持って帰りたいと思う品が、非常に多くありました。最後の週はショッピングの週でした。贈り物はすべて、何とかして持って帰らねばなりません。私にとっての解決策は、新しいトランクを買うことでした!

この週は、ホスト家庭と野球チームの阪神タイガースをテレビで見て、多くの時間を過ごしました。「ホームラン」「ストライクアウト」のような用語は世界共通です。疑いもなく、スポーツは大きな連帯感を得る経験です。私たちは興奮と失望の感情を分かちあいます。阪神タイガースは良いチームなので、大抵は興奮ですが。私はタイガースのインスタントファンになり、いまでもインターネットで、それを持続しています。

ホスト家庭を移る間、毎週末はホテル・ニューオータニに一泊しました。大阪城には歩いて行ける距離で、公園ではフェスティバルがありました。若い人たちにとても興味がありました。ロックバンドがいくつか、場所を作って演奏しています。ファッションはアメリカの若者に似ていますが、もっと極端です。

4週間の滞在中に、大阪城の内部を観ました。最上階からの眺めは抜群です。職業研修日には浄水プラントとゴミ焼却場へ行きました。広島へも弾丸列車で行きました。雨が降って、この日にふさわしいように思いました。シリアスで内省的な一日でした。

帰国前の夜、2660地区はお別れパーティを開き、ホスト家庭もすべて招待されました。これは、お礼を述べ、贈り物を交換し、写真を撮る、もう一度の機会となりました。心を打つ、多くのスピーチがロータリアンとGSEチームメンバーからありました。私たちの旅行が成功だったのは明らかでした。国際ロータリーの基礎は、グッドウイル、サービスそして世界理解です。帰国してから、手紙や写真、電子メールを、日本の友達やロータリアンから受け取りました。私の唯一の望みは、世界の反対側の知識、友情、エッセンスを持って帰ることが出来たと言う感覚を痕跡として残すことです。

この経験を一生のものにしてくださった国際ロータリーと関係者全員に、深いお辞儀をします。