シヤノン・ニール

(アメリカ商務省国際貿易担当行政官)

 親善大使―――それは何で、どうしたらそれになることができるのか。1991年10月に私の心に浮かんだ質問は、これでした。

 私はロータリーの研究グループ交換(GSE)のことを、上司であるサミュエル・P・トロイを通じて知りました。彼はアメリカ商務省グリーンズボロ地区事務所のディレクターで、グリーンズボロのロータリアンであります。実際には、私はロータリーのことを殆ど知りませんでした。ただ一つ知っていたのは、私の雇い主であるトロイが、週に一度昼食を食べに行く奉仕組織で、彼はロータリー青少年リーダーキャンプというプロジェクトを担当しているということでした。

 1991年の晩秋に、トロイは、1992年春、日本の大阪へ行くGSEプログラムについて打診してきました。彼は、ロータリーとは、自分自身を超越して他人を助けることを共通の目標とする男女の世界的な組織だと話してくれました。ロータリー第769地区は「親善大使」として大阪へ旅行する若い人のグループを求めている、と語りました。私は関心がある旨を彼に伝え、1991年10月末にGSE団員への長い応募書式を書き終えて提出しました。面接は1991年11月17日に行われました。この威厳に満ちた面接で私の足は冷え、手のひらには汗をかきました。1991年12月の初旬、私は日本の大阪のロータリー第2660地区ヘ、第7690地区を代表して行くために他の4人のメンバーとともに選抜されたと伝えられました。これは、少し早めのクリスマスプレゼントでした。

 アメリカ商務省の国際貿易行政に携わる貿易専門家として、私は外国への輸出についてのカウンセリングをしています。過去何十年のうちに、日本は国際貿易の重要な担い手になりました。不幸なことに、アメリカは日本に輸出するより、はるかに多くを日本から輸入しています。毎日、私はアメリカの企業に、日本の市場をもっと勉強して、日本との貿易のチャンスを広げなさいと奨励しています。しかし、私は過去4年間に亘ってこの役を、日本を一度も訪れることなしに務めていたのでした。私は日本とその経済、そして特にその人々について、もっと学ぶ機会を切望するようになりました。

 我々は、日本に対して、確かにアメリカ人としてのいろんな意見を持っています。戦争についての本も読みますし、自動車産業についての統計も見ます。日本人とはこれらの点に関して、少し見方が違っています。私個人としてもこの興味深い人たちについて、もっと知りたいと思い、この機会に胸を踊らせました。

 1992年3月、我々6人(団長エド・ブラウンと5人の団員)はノースカロライナのグリーンズボロを出発し、ジョージア州アトランタ経由で、日本の大阪に向かいました。大阪には1992年3月20日、雨の金曜日の夕方に着きました。20時間以上も飛行機に乗って、我々は6人とも一晩グッスリ、長時間眠るということだけを考えていました。しかし、通関を済ませて大阪空港のターミナルのドアが開くと、王室にふさわしいような歓迎と挨拶をうけたのです。

 ポスターがあり、花束があり、照明があてられ、写真が撮られ、多くのアクションがありました。まるで大阪全体が歓迎に集まったように感じました。第2660地区の人たちは、新しい生活がたった今始まったのだと感じさせてくれました。空港での短い歓迎パーティの後、ホテル阪神に連れていってもらいました。このホテルは次の5週間、私たちの故郷を離れたわが家になりました。

 3月21日、土曜日、想像しうる限り最も記憶に残る5週間が始まったのでした。楽しく、そしてフォーマルな歓迎レセプションカ、菅生ガバナーと第2660地区のみなさんによって、私たちのために開かれました。

 ロータリーによって、我々6人のために、よく考えられたスケジュールが準備されていました。それには、歴史、教育、産業、リクリエイションそして宗教が含まれていました。全体では、日本における様々なライフスタイルをはっきりと示すような、よくバランスのとれたプログラムに従って行動しました。

 日曜日は例外として、毎日の日程は朝8時頃始まり、遅くとも夕方6時頃に終わりました。ホスト家庭との夕食その他の活動があり、多くの日は16時間に及ぶ「勉強セミナー」になりました。

 きめ細やかな毎日のスケジュールにもまして、私が好きになったのは、毎週ごとの5つのホームステイでした。私と家庭生活を共にして下さった5つの家族は、私がいままで会った最高の人たちに数えられます。彼らは家庭ばかりでなく、心を開いて下さいました。私たちは家族の一員として迎え入れられたのです。私たちは笑いました。叫びました。分かちあいました。学びあいました。そして愛しあいました。「あいつら」とか「自分たち」とかの区別ほありませんでした。私たちは、現実の生活を共有する、本当の人間だったのです。

 毎日が、それぞれなりに特別な日でしたが、特に記憶に残る日をあげてみます。

 4月8日、水曜日の大阪法経大学訪問。この日、日本の明日の指導者たちと非公式に意見を交換することができました。我々は、日米の貿易、犯罪(日本の場合はその少なさ)について討論しました。我々は日米2国の関係の将来について語り、それをより良くするために、我々は何をなすべきか議論しあいました。これは「ミニサミット」のような感じがしました。討論に加わった双方とも何らかの形で得ることがあったと思います。

 4月13日、月曜日、関西電力の高浜原子力発電所。奇妙に思えるかも知れませんが、私はこの高浜原子力発電所行きの小旅行とそれに伴った興味深い議論を心から楽しみました。GSEプログラムに参加する以前の私の、原子力発電所に対する知識は最小限でしかなく、無知と、時には恐れがあるだけでした。子供のころの、スリーマイル島の事故と、それに対する好ましくない批判の記憶があります。世界はいつか、天然資源が枯渇し、経済の規模を保つためには他の燃料を利用せざるを得ないでしょう。日本は原子力の利用という正しい道を歩んでいるのではないでしょうか。

 4月1日、水曜日と7日、火曜日の京都・奈良観光。高度に産業化された活発な経済とともに、美しい日本には古くからの平和な歴史があります。アメリカの歴史はようやく200年ですが、日本は二千年にも及ばんとする長い栄光の歴史をもっています。日本の古都は、静かな京都と奈良です。現代の日本がどのように発展してきたかの、多くの歴史が、これらの都市にあります。美しいお寺や神社は、日本の人たちの発展の確かな表現です。これらの神聖な場所を見学できて光栄でした。

 あっという間に日は遇ぎて、GSEプログラムほ4月23日、木曜日に終わりました。新しく見つけた何百もの友人にお別れを告げるのがいかにつらいことか、5つのお世話になったご家庭とお別れするのが、どんなに心を揺することか、思いもかけませんでした。一人一人が違っていました。しかし、その一人一人が、私の心にとっては特別に大切でした。この人たちにとっても私がそうであるように希望します。本当のところ、私がお別れしたのは、新しいお父さん、お母さん、姉妹、兄弟、姪や甥だったのです。

 これは親善旅行だったでしょうか。その通りです。お互い、日本と自分について多くのことを学びました。顔、形は違っても、話す言葉は違っても、奥底では、私たちは同じ人間なんです。私たちは生きて行きたい、私たちの子供も、できる限り良い世界に住まわせてやりたいと思います。すべての国に平和と幸せがありますように。

 この一生に一度の機会を与えて下さったことについて、多くの皆さんにお礼を申し上げます。サム・トロイには、私を指名して下さったことに、グリーンズボロRCにはスポンサーになつて下さつたこと、第7690地区の選考委員会には私を選んで下さったこと、第7690地区ガバナーのエバレット・パジェットにはその選考を承認して下さったこと、アメリカ商務省には私の休暇を承認して下さったこと、第2660地区ガバナー菅生さんには私を受け入れて下さったこと、団長のエドワード・ブラウンにはそのリーダーシップと指導についてお礼を申しあげます。忘れてはならないのが、第2660地区の、このGSEプログラムを大成功にして下さった素晴らしい人たちであります。

 ロータリーは、私にとって何でしょう?それは自分を超えた奉仕です。毎日、世界中のロータリアンが、他の人と接触しています。援助し、導き、他の人が経験から何かを得られるように分かちあっています。私はGSEの経験から多くのことを学びました。日本について、ロータリーについて学びましたが、自分自身についても学びました。一人の人間が世界を動かすことがありえます。私は、喜んでその責につきたいと思います。