ムイト・オブリガーダ!

佐田京子

(日本国際飢餓対策機構事務部総主事補佐、八尾東ロータリークラブ推薦)

ついに、ブラジルへ!

 1996年5月19日。大石団長と私たち4名の団員は、ブラジルのサンパウロに到着しました。無事に到着できたという安堵感とともに、長距離の移動の疲れが一気に出たためか、くたくたになっていたことを覚えています。日本からロサンゼルス及びマイアミ経由でサンパウロに到着するまでかかった飛行時間が、約21時間でしたので、さすがに飛行機好きの私でもうんざりしてしまいました。

 初めて訪れる国、ブラジル。日本では、ブラジル日系人の出稼ぎに関する情報以外は、ほとんどこの国についてのニュ−スを聞きません。また、テレビで取り上げられる番組は、アマゾン地域を対象としたものが多く、ブラジルの庶民の生活や、都会についての紹介を取り上げたものは少なかったように感じました。ですから、全くと言っていいほど、ブラジルに関する情報収集もできないまま、現地に赴くこととなり、大きな期待と不安を胸に旅立つこととなりました。

「郷に入ったら、郷に従え」

 初めてのブラジル訪問は、見るものすべてが新鮮に映りました。私は、未知の国を訪問する時いつも心がけていることがあります。それは、“その国に滞在している間、できる限りその国の文化や習慣等を学び、理解することを努める”ということです。しかし、大切なことを一つ、私は忘れていました。それは、「郷に入ったら郷に従え」ということでした。今回はこのことが、私にとって一番の教訓となりました。

 例えば、時間を例にとってみましょう。日本では、○○時○○分に集合!と言えばほとんどの人がその時間を守るでしょう。しかし、ブラジルの場合は、そうはいかないのです。私が現地で見て驚かされたことは、少なくとも、大多数の人々が当然のごとく平気で30分は遅れてくるということでした。もう一つ例をあげて説明すれば、日本では何事もスケジュ−ルを立てて、それに従って行動することが多いように思います。しかし、私たちがブラジルに滞在していた期間、スケジュ−ルはあってないような場合が非常に多かったのです。ひどい時には、団員全員が移動のバンの中で顔を見合わせて、「ところで、一体私たちは、今からどこにいくのかなぁ〜?」という始末でした。このようなことが何回も度重なるに連れて、始めの2週間は、大変いらいらさせられました。そして、せっかくの滞在をこの「いらいら」がじゃまをし、思うように楽しめなかったのです。しかし、そこで私がこの体験を通して考えを改めさせられたことは、私たちが異文化に遭遇した時、その善し悪しを評価することではなく、受け入れることが大切だということでした。日本とブラジルの間には、文化や人々の物事に対す る認識に違いがあることは当然です。「日本ではこうだ」という考えを持って自国と相手の国を比較している限り、真にその国の文化を理解することはできないし、また自分も心から楽しめないと感じました。後半の2週間は、「ここはブラジルなのだ!」という考えに徹したため、本当に心から楽しむことができました。そしてそれが良かったのか悪かったのか、ブラジルののんびりした習慣にすっかり慣れてしまい、日本に帰国してからというもの、元の生活のペ−スに戻るまでしばらく時間が必要でした。

ブラジルと日系人

 私たち全員が驚かされたことの一つに、サンパウロの日系人の人口が非常に多いということでした。それもそうです。ブラジル国内にいる約130万人の日系人のうち、40%がこのサンパウロ州に集まっており、海外では最も大きな日系コロニアルを形成しているということですから。サンパウロ市内のリベルダ−ジという地区は、大きな日系人街が存在し、その地区に入った途端、すぐにわかります。路地の両側には、赤提灯の形をした街灯と、日本語の看板を掲げた商店がずらっと建ち並び、宝石や仏壇から布団や招き猫までが商品として売られていました。「へえ−こんなものまで売っている!」と思わず目を見張ってしまうほどでした。私たちがしばしば待ち合わせ場所として利用させていただいた、日系パレスホテルもこのリベルダ−ジにあります。道行く人も日系人が多く、雰囲気が日本に似ているため、なんとも複雑な思いに駆られる場所でした。

日系人とブラジル

 そもそも、なぜ、日系人がこれほど多いのだろうか?この疑問に対して、日本人とブラジルの関わりについての歴史を学ぶことができたことは、私にとって大切な知識の蓄えとなりました。

 日本からブラジルへの移住は、1908年に始まり、サンパウロ州は、コ−ヒ−農場の人手不足でした。日本とブラジルとの国交が開けたこともあって、日本人をコ−ヒ−農場のコロノ移民として迎えることが決定され、当時、ブラジルには多くの貧しい日本の農家の人々が夢と希望を抱いて「笠戸丸」の船に乗り込み、ブラジルに渡ったということでした。しかし、現実には、夢に描いていた生活とはほど遠いものだったようです。特に第1陣の移民は、いわゆる「奴隷」に代わる労働力として扱われ、コ−ヒ−園の草取りや、収穫等を行う契約移民として働いていたそうです。しかし、次第に日系人の多くは自分の土地を持つようになり、独自に農業を発展させるようになっていきました。その結果、この国の農業の分野における発展に、日本人が大きく貢献をしたそうです。

 ブラジルでは、日系人は真面目で勤勉であるということから非常に尊敬され、信頼を得ていました。ブラジルの日系人は、ブラジル人ではありますが、同時に日本人的な要素を強く残してい方々が多かったように思います。日本人のようで、しかし日本人ではないそのようなブラジル日系人の方たちとの交流も、始めは私の心の中で整理ができずに混乱していましたが、滞在の終りに近づくにつれて、ようやく「ブラジル日系人」がどのような人たちなのか少しは理解できるようになっていきました。

2つの顔を持つサンパウロ 〜裕福と貧しさ〜

 G.S.E.のブログラムの中には、必ず職業研修日が設けられており、自分の携わっている仕事の分野に添った研修をその日には受けることになっています。

 私は現在、飢餓の問題を抱えている発展途上国の、緊急援助、自立開発、教育等の活動をしている民間援助団体(日本国際飢餓対策機構)に所属しています。そこで、1日目の職業研修日には、ファヴェラ(スラム)や、孤児院を訪問する機会が与えられました。どこの国も、表に現れる華やかな顔と、その陰に隠れている顔があると思いますが、ブラジルのサンパウロは特にそれが顕著に見られました。高層ビルを背景に立ち並ぶファヴェ−ラ(スラム)は、まさにこの「貧富の差」をそのまま絵に描いたような光景でした。「スラム」は、ブラジルで「ファヴェ−ラ」と呼ばれていますが、ほとんどのファヴェ−ラの住民は、ブラジル北部から移住してきた者が多いということです。貧しい北部の人々がよりよい生活と仕事を求めてサンパウロ州に流れ込んできているのです。そして彼らは、ベニヤのバラック小屋を一晩のうちに建て上げてしまうのです。するといつのまにかそこは何十戸という大きな不法占拠の街ファヴェ−ラに姿を変えてしまうそうです。

 このような社会問題を、国としていかに解決していくかは、この国の大きな課題ではないかと感じました。

ムイト・オブリガ−ダ

 サンパウロを離れる当日、空港で私たちを見送るために、サンパウロでお世話になった大勢のロ−タリ−の方々が駆けつけてくださり、他の人々からみると「一体何の団体の集まりだ?」と思わせるような状況でした。現地の皆さんの温かい心遣いに感謝しきれない思いで一杯でした。

 振り返ってみれば、長かったような、短かったような、変化に富んだ滞在でした。今までになく様々な貴重な体験、また文化交流ができたことを大変嬉しく思います。

 ブラジルは、たしかに治安が悪いです。しかし、それだけで国を判断してはならないことは言うまでもありません。そこには、すばらしい文化も存在するし、またすばらしい人々もたくさんいます。よく笑い、よく泣く国民性でした。大の男が、人前で堂々と泣く姿も見ました。悲しくて泣き、嬉しくて泣き、感情をそのまま素直に表している姿を発見しました。また、人々が、型にはまらず、縛られずに自由に生きていたようにも思えました。日本にはない、良さを見せていただき、それを知ることができたことは幸いでした。

 この、G.S.E.プログラムに参加する機会を与えてくださった日本のロ−タリ−の皆様、そして現地で私たちを温かく迎えてくださったロ−タリ−の皆様に心から感謝とお礼を申し上げす。

ムイト・オブリガ−ダ!(本当に有り難うございました)。