通常の観光旅行では得られない収穫

川嶋 伸治

(大阪市経済局中小企業部貿易観光課主査、大阪中之島ロータリークラブ推薦)

1.車 及び 道路のこと

 28時間の機中の長旅に加え、天候不良のため一旦リオデジャネイロ着陸というおまけまで付いて、サンパウロ・クンビッカ空港に到着しました。空港で国際ロ−タリ−4430地区の方々とごあいさつをした後、団員それぞれ別れてステイ先の方の車に乗り各家族に向かいました。

 空港からサンパウロ市内までは約30分。ハイウェイをかなりの高速で快調に走っていました。その時私がおやっと気づいたのは、車のすぐ横を歩く人の姿でした。側壁はおろか、ガ−ドレ−ルや歩道は全くありません。

 つまり車のすぐそばまで歩行者が入って来れるのです。国土は広く人口は多くない(面積22倍、人口1.25倍)ので、日本の様に道の両側が建て詰まっていることはなく、広々と草原が続いていることが多いのですが、日本の高速道路しか知らない私には、150Kmで走る自動車の横を通り過ぎる人や自転車、あるいはサッカ−に興じる少年たちが事故に巻き込まれないかとても心配になりました。

 ブラジルにおいては、市街地の一部を除いては歩道はほとんど整備されていません。ブラジル滞在中、幸いにも交通事故には遭わず、また見かけることも無かったのですが、事故は結構多いのではないかと感じました。

 こういった状況は、もう少し狭い(中央分離帯のない)国道においても同様で、相手もこちらも100Km以上という時は、私にとっては冷や汗ものでした。

 道路の環境整備と交通制度がこまかく決められている日本と、規制しきれずに通行者、ドライバ−の判断次第というブラジルとの差が交通事情にも現れているようです。

 一方公共交通機関は、地下鉄2路線・JRに相当する鉄道・バスも相当数路線がありますが輸送量は十分ではありません。車が主な交通手段ですので道路は広く車線数も多いのですが、やはり交通渋滞はかなり頻繁に起こります。サンパウロの朝夕のラッシュは日本と変わりません。

 しかも整備が十分でない車もかなりあり、排ガスによる大気汚染は相当進んでいると思われ、早急な対応が望まれるところです。

 郊外では街のあちこちに、凸型のマウントがあり車のスピ−ドを強制的に制限しています。交通安全を確保するうえでは、効果的な方法ですが緊急車両の出動等を考えた場合、日本では到底このような方法は実施できないでしょうが、それを実行できる明快なところがブラジルにはあります。

 さて町の中を走る車のスピ−ドを見て、F1ドライバ−を育てる国というのも、なるほどと思いました。レ−シングドライブのレベルとは全く異なるでしょうが、ついつい結び付けて考えてしまうのでした。

2.ブラジル人に間違われたこと

 私はブラジル滞在中たびたび「あなたは本当に日本人ですか」と尋ねられました。これは私自身にとっても、かなり意外でした。

 大抵私たち一行が日本からきていることを承知の上で、私に例の質問を投げかけてくるのです。心配になって鏡の中の顔を見てみるのですが、「やはり日本人だ」と私は思うのです。

 初めのうちはそういう風に見る人もいるんだと気にも留めませんでしたが、何回もきかれると気になりだし、「自分の存在」や「日本人」ということについて少し考えさせられるきっかけとなりました。

 さて、サンパウロの東洋人地区リベルダ−ジには、日伯文化協会という団体がありその中には文化研究所が設置されています。そこで、日系社会の動向について話を聞く機会を得て、とても興味深く聞かせていただきました。

 文化研究所では、日系移民の世代毎に、日本人以外と結婚する割合を調べており、1世においては6%、2世は45%と率が高くなっているとの事であり、ブラジル国内の他の民族の移民(イタリア人やドイツ人)より高いとの事です。

 さらにブラジルへの移民はアメリカへの個人移民と異なり、集団でやってきた契約農民であり、一旗上げた後は帰国しようと考えていた者が多く、なかなかブラジル社会への同化が進まなかったという歴史も考え合わせると、その混血度の進展は急速なものと考えられます。

 研究所では、その理由を「日本人はその精神の核に国とか国民性とかいうことが希薄で、単に歴史的に外国人と触れる機会が少なく馴れていかなかっただけで、馴れれば核がないだけその進行は速いのではないか。この事は移民社会だけでなく、日本国内でもやがては同じような傾向になるだろうとの説明を受けました。

 日本語の特徴として、外来語をそのまま受け入れて表記することができる文字をもっているという指摘もされていました。

 一般的に欧米の人は開放的であると言われています。歴史的にも移民族との交流は長く、文化的・宗教的にも共通した土壌を持つものも多いはずです。しかしブラジルでのイタリア人社会、ドイツ人社会は比較的守られているのです。

 良い悪いの問題でないことは明らかです。答えがある問題でもありません。結局は個人個人の判断しかないのですが、では自分はどうかと考えてみると現実にそういう場面に直面したこともなく、予測がつきません。理屈では説明できないことが沸き起こってくるものなのか予測できないのです。

 世界のあちこちで起こっている民族的な対立や地域的な紛争が身に染みて感じられないのと同じかも知れません。この事自体、精神の核がないということなのかも知れません。

 残念ながら私にはこれ以上突き詰めることはできませんが、精神的な核の様なものがあるとされるイタリア人やドイツ人が少しだけうらやましく思えました。また、日系2世の父親が娘の結婚について悩んでいる様子を見て、その気持ちが少し理解できたような気になったことも事実です。

 日本語が読める日系人が急速に減っていると聞きます。日系新聞社は経営的に難しくなっているとも聞きました。

 私たちを迎えて下さった日系人の方々は日本語に堪能な方々が多く、話しているとブラジルにいることすら忘れそうな事もあります。しかし「おたよりを頂くときはロ−マ字で書いて下さい」と言われると、私自身とても驚いたりしています。

 おそらく、益々外国人と結婚される人は増加し、日系社会はひょっとすると消滅してしまうかも知れませんが、改めて日本人という自分を意識させられる経験でありました。

3.働くという事

「他人に使われるなら日本の方が良い。上にいられるからブラジルにいるんだ。」という言葉を聞きました。発展途上の国であり、ビジネスの種は豊富にあると言って良いでしょう。しかも日系人は日本あるいはアジアのビジネスを参考にする目も十分にあるはずです。自分で独立してビジネスを開くチャンスはかなりあるはずです。

 商売を始めることは、おそらく日本よりも容易だろうと思われます。しかも上に立てば上に立つほど自由になることが増えるのです。

 日本では係長にもそれなりの人生を楽しむことができますが、身を削って社長になっても自分の生活を豊かにするという意味で充実した時間が過ごせるか疑問です。むしろさらに拘束時間が増えるケ−スも多いのではないでしょうか。

 もちろんビジネスで成功することは人一倍の努力が必要です。口にだせない苦労も一杯あると察します。私たちのお会いした人が成功者が多いのも事実で、一方で苦境に立っておられる方もいらっしゃると思います。日本では例えばサラリ−マンとして成功しても広々とした別荘を持ち、週末毎にそこに出かけるということは、相当困難ではないでしょうか。日本で何倍ものお金をつかんだとしても、自分の納得のいく時間が過ごせるでしょうか。

 ここでまた日本にいるこだわりは何かという事を考えさせられました。「使われるなら日本の方がいい」というある社長の言葉が心に残りました。

4.ブラジル社会の中で

 日系人の中には、教育程度の高い人が多い。1世の時は農業が多いが、3世・4世の世代では、医者、弁護士、エンジニア等専門職が多い、工場経営などはむしろ少数のようです。

 ブラジルで会社を組織しブラジル人を多く雇用して事業を継続させて行くことが難しいように思われました。教育が行き届いてない現状では、能力に個人差が大きく集団として力を発揮させることが難しいようです。

 また一方で労働者の権利は奴隷制の反動で非常に手厚いものとなっており、決められた業務のみでそれ以上の向上というものは望めない状況のようでした。

 したがって個人の努力で成功を求められる職業をめざす傾向が定着しているようです。

5.感激、涙、拍手のこと

 「さくら、さくら」「アベ マリア」と岸さんの声が響きます。例会での私たちのプレゼンテ−ションは、それぞれの自己紹介の後は岸さんの歌と決まっていました。何度聞いても素晴らしいものでした。彼女の声が響き始めると私は一種安心感を覚え、気持ちが和らいで行きました。彼女の声はいつも会場内の空気をびんびん震わせ、そして私の鼓膜に到達しました。じっと聞き入る人、一緒に口ずさむ人、その反応はまちまちでも場内は一つの空気に包まれました。涙をこぼす人もいます。ブラジルの人は感情が直線的で感激すると、男の人も女の人も人前でも関係なく涙を流します。歌が終わると、1人2人3人結局全員が総立になります。拍手が続きます。私も岸さんに拍手を送ります。たまたま彼女と一緒に日本からきて同じ黄色いス−ツを着ているだけで、この拍手は少しは自分にも送られていると誤解しながら拍手を続けます。自分の仲間に送り続けられる拍手に感激しました。本当の拍手喝采、STANDING OVATIONを目の前で見せて頂きました。

6.世界を見るということ。そして感謝

 2万Kmの距離を隔てて、地球の反対側にも人々の暮らしがありました。そこにも、夕飯の準備をする母親の姿があり、声を張り上げて歌をうたう子供がおり、バスにゆられて会社に向かう勤め人の姿がありました。全く当たり前の事で何の不思議もありません。が私にとっては、これまでの観光旅行では感じられないことでした。世界中に人々が住み、家族があり、それぞれの暮らしをしていることを肌で感じたことが最大の収穫であったと思っています。

 今回このような機会を与えて下さったロ−タリ−クラブの方々に感謝するとともに、ブラジルで私たちを迎えてくださった方々、大阪でGSEの事業にご尽力頂いた方々、そして団長と3人の団員の仲間に感謝いたします。